10:拗らせ女子は夢魔の夢を見ない
夢魔の男の子に取り憑かれている。
「お姉さんのこと、好きですよ」
爛々と光る金色の瞳。闇を映したような深い紫の髪色。英国少年風のフォーマルな服装で晒された色白の太もも、細身ながら成長期らしさのある肉付き。その特徴だけをあげつらえば美少年でしかないが、頭には山羊のような角を生やし、そのお尻からは細く長い尾を伸ばす。
夢魔、もとい、インキュバス。
私の夢を食べに来たその子は、毎夜、私をそんな言葉で拐かす。
◆ ◆ ◆
新卒で入社して二年目。一番しんどい時期にふらふらと帰宅すると、夢魔の少年がベッドに座っていた。
「おかえりなさい! お姉さん」
彼はにんまりとした笑みを浮かべながら、両手を広げて私を待ち構えた。相手が夢魔といえど、日頃ストレスで限界を迎えそうな私はほだされてしまいそうになる。彼の蠱惑的でどこか嗜虐的な目の色、ありていに言えばSっ気のある瞳が、受容的な態度を取ることで他にはない包容力を生んでいる。
もしも今の彼の懐に飛び込んだら、「よしよし」と甘く囁くような声で頭を撫でて慰めてくれることが容易に想像できた。
「おや、つれない」
「からかわないで。今日こそ諦めると思ったのに」
ふいっと顔を背けて抵抗する。
彼が私に取り憑いて早数日。私は彼に心を奪われんと必死に抗い続けていた。
彼はそんな私を面白がるように言う。
「そんなお姉さんが好きですよ」
「嘘」
私はやつ当たるように彼に向かって鞄を投げた。ふっと夢魔の姿が掻き消える。
今がチャンスだ。
夢魔が姿を消している間に私は着替える。
自分の家なのに、夢魔が住み着いたせいで落ち着けないものになってしまった。お風呂だって気を遣う。「気にしないでいいですよ」と人の気も知らず夢魔は言うが、こうやって姿を消させないと、夢魔の視線が気になって仕方ない。やはり相手は夢魔だから、人をその気にさせる力があるみたいで、肌身を見られるのは特に危険だ。初日なんてどうにかなってしまいそうで危なかった。
彼はそんな私の必死の抵抗を、毎夜「かわいいですね」と嘲笑う。
「かわいいですね」
「――っ、早い!」
いつの間にか姿を表していた夢魔に顔を赤くする。手元のティッシュケースを投げた。
今度の夢魔はそれをかわす。
「そう何度も姿を消してはいられないので」
「避けるな!」
「ハハハ。そういうところも好きです」
好き、好き、好き。夢魔は、事あるごとに私に向かってそう言う。その度に顔が赤くなるが、邪念を振り払って私は相手にしないようにしている。
それが夢魔の手口だと理解しているからだ。
「いい加減、素直になったらいいのに」
「私はあなたが嫌い」
「そんなはずはありません! だって、僕の姿形はあなたがもっとも望ましいと思う外見なんですよ?」
「だからこそ! 私にとって、あなたは不気味なの」
そう、彼は私を獲物にしているだけ。その姿も、その言葉も、全ては紛いものにすぎない。
そこに心は宿っていない。
彼に惹かれる何もかもが、偽物だと知っているからこそ、私は負けたくないのだ。
「全部、全部が嘘。あなたの"好き"には厚みがない。私は騙されない。どうせ、そう言えば人間の女なんか簡単に股を開くと思ってるんでしょ」
「違うんですか? 皆さん喜びますけど。僕の"好き"」
「そういうところが受け付けないの! あのね、"好き"って特別なの! あなたには分からないだろうけど、人は『ああ、この人と一緒にいたいな』『一緒にいると落ち着くな』『恋をしているな』と思ったときにだけ言葉にするの! あなたの言葉は軽い!」
「そうなんですか?」
きょとんとした顔で返されると、言葉に詰まる。実際、私は恋愛経験はないし……未だに処女だし……。
でも、そういうもののはずだ。夢魔のような貞操観念のクソ男も世の中にはいるだろうが、そういう奴のほうが常軌を逸しているのである。LikeやLoveで言い換えるものじゃない、日本語の"好き"は好きという意味であり、それは大切な人にだけ向けられるべきだ。
「んー」
夢魔は色素の薄い下唇を人差し指で押し上げるように触れながら、考え込むそぶりを見せた。
その珍しい長考は文字通り長々と続き、落ち着きを取り戻した私は明日に備えて日常生活を再開する。
しばらくしてお風呂から上がり、寝に就くためいかにしてベッドに座る夢魔を退けようか考えていたところ。
「分かりました」
夢魔はそう言った。
立ち上がり、とことこと私の目の前に来る。
「やっぱり、僕はお姉さんのことが好きです」
「ひっ……」
「本当ですよ? 面白いですし。かわいいですし。糧にはなりませんが一緒にいて楽しいです。なのできちんと言えます。それなら受け止めてくれますよね?」
上目遣いにたじろぐ。言葉に重みが伴う。その破壊力に、目が眩みそうになる。
夢魔はにんまりとした笑みを浮かべる。
「お姉さんのこと、好きですよ、本当に」
――あぁ、と私は気付く。
正しい"好き"の使い方なんて、夢魔に教えるんじゃなかった。
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