09:かたしろ [残酷描写あり]

 細く開けた障子から、青い月光があなたの枕辺まくらべに伸びていた。


「かたしろの姉さま」


 ささやくのは私だけの呼び名。あなたは震えながら顔を上げる。

 寝乱れた黒髪のなかで右耳の前のひと房だけが白い。右のまゆも清らかな白だ。


「坊ちゃん」


 かすれた声が応えた。くずおれそうな微笑みに心乱されて、私はその痩せたからだき抱いた。こんなに小さい人だっただろうか。


 あなたが私の背におずおずと腕を回す。

 瞬間、過去が鮮明によみがえる。「かたしろ」を、不揃いに白い眉のことだと信じていたあの頃が。





 分家の三男坊、我ながら愚鈍な子供だった。権力争いには無縁も無縁。だからこそこぼしを許されていたのは確かだ。


 これは今でもそうだけれど、年にいくかは一族が本家に集まる機会がある。幼い時分の私は、暇になると屋敷の中を探検して回った。入り組んだ廊下で迷子になっては泣いて女中に助け出されるのが常だったが。


 姉さまに初めてまみえたのは七歳の頃だ。

 晩夏の昼時。埃っぽい、暗い廊下の果ての、荒れた庭に面するがらんとした八畳間。十四歳の彼女はとんに身を横たえて、藍地のかたえりもとに扇子で風を送っていた。


「可愛いお客さん、どうなさったの」

「お屋敷を探検しているんです」

「ここまで遠かったでしょう」

 みちのりをろくに覚えていなかった私が首を傾げると、彼女はかろかろと笑った。

「帰りは送ってもらいましょうね。じきにひるを運んでくる者があるから」


 人が来るまで、彼女は私の幼稚な質問に辛抱強く答えた。


 そうね。長いこと寝てばかり。

 悪い病なの。だから人は嫌って寄り付かない。

 寂しくはないわ。子供じゃありませんもの。


 ぜんを運んできた女中は、彼女とは目も合わさず私の手を引いて帰った。


 私はすぐに彼女が恋しくなった。部屋を探して試行錯誤するうち、さすがの私も道順をおぼえた。庭を通じて至る方法も知った。

 見つかれば連れ帰られてしまうから、世話をする者が来ない時間を選んで彼女をおとなうようになった。


 私は皆に疎外された同類として彼女をしたった。

 彼女は私のあい無い話を喜んで聴いてくれた。頭も上げられないほど具合が悪い時でさえ。

 部屋には数冊の草紙が置かれていて、彼女は時折、幻想的な物語を読み聞かせてくれた。恐らく彼女には御伽噺おとぎばなしくらいしか与えられなかったのだろう。余計な知恵を付けぬように。


 彼女は私に「かたしろの姉さま」と呼ばせ、私のことは「坊ちゃん」と呼んだ。

 訪いは日のあるうちにと言い含められ、部屋での出来事は二人の秘密になった。


 十二歳の秋、本家の令嬢のご婚姻がらみの何ぞで、ひと月近く屋敷に滞在した。

 彼女はいつになく顔色が良く、私たちは縁側で語らったり、砂糖菓子をつまんだりして過ごした。

 幸福な日々が終わろうとする頃、彼女は私に、もう二度と来てはいけないと告げた。坊ちゃんは大きくなられたのだからと。

「ならば僕と夫婦めおとになってください」

 彼女は哀しい笑顔で首を横に振った。


 その夜私は庭を渡った。明るい月夜だった。


 障子を開けると、蒲団に伏せていた彼女が光に気付いて顔を上げた。涙の跡が残る頬を大粒の滴が伝う。彼女に駆け寄り、荒い呼吸を繰り返す背中をさする。

「どこか痛むのですか」

 なぜ来たの、とだけ呟いて、彼女は答えなかった。


 彼女の苦しみようは夜が更けるにつれ酷くなった。身を折ってもだえ、激しくいては血をき、しんじょうを語るうわごとを絶え絶えにこぼした。


 とおで当主のめかけだった母を亡くした。死にぎわに母が遺したは彼女の命を常人より強くしたけれど、当主の正妻に知られて利用された。

 正妻には妖術の才があった。ただし人を呪えば自身にもわざわいが返る。それを回避するために彼女を、何度でもけがれを引き受ける生きたかたしろにしたのだ。


「私につながる呪いがどんなものかは分かるの。きっと、今度こそ耐えられない。私は死ぬ。ひいさまの縁談のために」

 手土産にお相手の政敵をちゅうするのだと、彼女はせいぜつに笑った。


 身をく怒りのままに彼女を抱きすくめた。

 許せない。かないで。あなたの他には何も要らない。それはあいがんだったか、じゅだったか。


 やがて夜が明けて、私の腕の中で彼女が力を抜く。血と汗にまみれた顔には多少の生気が戻っていた。

「池で身を清めて、着ていた物はみなそこに埋めて隠しなさい。坊ちゃん、ありがとう、私の事は忘れてどうか健やかに」

 それきり彼女は眠ってしまった。呼吸の落ち着いた胸に頬を寄せてから、私は庭に下りた。





 ぼんくらを装いつつあなたを助ける方法を編むのには骨が折れた。お陰で情けなくも五年が経ってしまった。


「何をする気なの」

「機をみてほだしを切ります。よい、奥方はまた人を殺めるのでしょう?」


 その時あなたは唐突に身をこわらせた。痛み。不当に流し込まれる禍のたんしょ


 すぐさま短い、圧縮された呪文ことばであなたを絡みついた術式の糸から解き放つ。これで呪いは奥方に返る。あちらも気付いただろう。もう猶予はない。


と逃げてください。どうか」


 差し出した手に、あなたの指が触れる。

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