07:ぼくと、先生

「担任の新井あらい先生は、元気な赤ちゃんを産むためのお休みに入りました。新井先生がまた学校に来るまでしばらくの間、代わりの先生がみんなの担任の先生になってくれます」

「初めまして、木村きむら千里ちさとです。新井先生が戻ってくるまでの間だけど、みんなと過ごせるのを楽しみにしていました。今日からよろしくお願いします」


 教室中からよろしくお願いしますの声が飛ぶ。荒井先生がいなくなって寂しいという気持ちは佐藤さとう純也じゅんやの中にもう、なかった。


 木村先生が自分の名前を黒板に書く。黒くて長い髪は綺麗に編み込まれ、金のバレッタで留められていた。

 細い首筋、白い肌。

 サッカー部の顧問をしていて、髪も短く、小麦色に焼けた肌のカッコイイ新井先生とは全然違う。筋トレが趣味で、小さな一年生たちを何人もいっぺんに持ち上げていた強い新井先生とは全然違う。同じ”女の先生”なのに全然、違っていた。


 休み時間になって、木村先生はクラスの女子たちから質問攻めに合っていた。

 歳は二十八、結婚はしていない、恋人もいない、好きなものは映画館で食べるポップコーン。

 新井先生は、結婚していた。結婚しているから、赤ちゃんがお腹の中に来てくれたのだと言っていた。木村先生は結婚していなくて、だから、ほっそりとしたあのお腹の中には赤ちゃんは来ないのだ。


「赤ちゃんって、どこから来るの?」


 頭をよぎった疑問が口から発せられていたことに気付いたのは、あんなにうるさかった女子の声がなくなったからだった。蝉の声だけが教室に響いていて、木村先生の目が純也を真っ直ぐに見つめていた。


「まだ、授業では習っていないよね。もう少し大きくなったら、授業でお勉強することになるんだけど……赤ちゃんはね、男の人の中でしか生まれないものが、女の人の中にしか生まれないものと出会うと来てくれるのよ」

「ぼくの中にもうまれるの?」

「生まれるよ、いつか、赤ちゃんになるためのものが」

「先生の中にも生まれてる?」

「……そうね。みんなはまだ子どもだけど、どんどん成長して、男の子と女の子の違いが大きくなっていくの。そうしたら、またきちんとそれぞれの違いについて、赤ちゃんのことについて、勉強しようね」


 休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響いて、みんな自分の席に戻る。

 国語の教科書とノートを机の上に準備しながら、純也はまだ、先ほどまでの会話の中にいた。

 自分はまだ子どもだけれど、大きくなれば、自分の中に赤ちゃんになるためのものが生まれれば、それが木村先生の中に生まれたものと合わさって、赤ちゃんが来てくれるのだろうか。そうやって来てくれた赤ちゃんは、木村先生の中で大きくなって、木村先生も新井先生みたいなお腹に、なるのだろうか。


 前にテレビで見た、カメが卵を産む映像を思い出す。カメのお腹は、大きくは見えなかった。けれど、たくさんの卵を産んでいた。

 新井先生の赤ちゃんは一人で、卵ではなく小さな人間の姿をしているのだと言っていた。女子たちが新井先生の大きなお腹を撫でさせてもらっていて、ちょうどその時に赤ちゃんがお腹の中から蹴ってきたと騒ぎになっていた。

 卵よりも大きなものが、どうやって産まれてくるのだろう。おへそは昔お母さんと繋がっていた場所なのだと聞いていた。お母さんと繋がっているのに、どうやって産まれてくるのだろう。


 その日は全く、授業に集中できなかった。


「お母さん、お母さんには赤ちゃんは来ないの?」

「え? どうしたの、いきなり」

「新井先生がね、赤ちゃん産むからお休みになったの」

「ああ、産休に……そうねぇ、お母さんには赤ちゃんは来ないかな」

「お父さんのなかにうまれるものと合わないから?」

「おー、すごいね、そういうのも教わったの? そうだね、お父さんとお母さん、純也がいてくれたら幸せだから、赤ちゃんは他の人のところに来てあげて、ってしたの」

「そっかぁ。ぼくにもいつか、赤ちゃん来てくれる?」

「うん、きっと来てくれるよ。もう少し大きくなったら、またこの話しようね」

「わかった!」


 もう少し大きくなったら。もう少し大きくなったら、赤ちゃんが来てくれるようになる。木村先生のお腹の中に、来てくれる?


 パジャマに着替えて、歯磨きをして、布団に潜ってまたそのことを考える。

 目を閉じて、真っ暗闇に浮かんだ木村先生が両手を広げて待っている。先生のお腹が白く輝いていて、きっとそこに先生の中にしか生まれないものがあるのだろう。見下ろした自分のお腹も輝いていて、ぐるぐると渦巻いていて、その渦がたくさんの小さな光でできているのが分かった。

 自分の中にしか生まれないものは、きっとこのたくさんの小さな光なのだ。これが、先生のお腹で光るあの美しい球体に出会うのだ。


(もう少し、大きくなったら)


 目を覚ました純也は、自分の下着が濡れていることに気付いた。とっくの昔に卒業したはずのおねしょをしてしまったと泣く純也の背中を、母が優しく撫でていた。

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