05:嘘つき姉ちゃんの結婚




「姉ちゃんなんて嫌いだ!」


 ──そういって食卓を飛び出して、自分の部屋に閉じこもって何分経っただろう。

 体育座りで膝を丸めていると、とくとくと胸の鼓動がうるさい。ぴたりとドアへ貼り付けた背中越しに、食卓の会話が聞こえてくる。


「どうしちゃったんだろうな、皐太こうたのやつ」

雲彦くもひこさんのあいさつが怖かったんじゃない?」

「そんな……物腰やわらかく接したつもりだったのに」


 のどごしだかものごしだか知らないけど、そんなものでぼくはだまされない。あいつは敵だ。人さらいだ。大事な姉ちゃんをうばってゆく犯罪者だ。ぼくはいよいよ腕に力を込めて、頼りない膝を抱え込んだ。

 寝耳に水ってやつだった。隣の家で暮らす親戚の姉ちゃんが、見知らぬ男を連れてうちに来た。「わたしたち結婚することになりました」といって、見知らぬ男の腕にまとわる姉ちゃんは、なんだか見たこともないくらい綺麗で。なぜだか急にそれが許せなくなって、ぼくだけ拍手で二人を迎えられなかった。父さんも、母さんも、高校帰りの兄ちゃんも、何食わぬ顔でお祝いの言葉をかけていたのに。

 なんだよ、姉ちゃん。

 結婚するだなんて初めて聞いたよ。

 ずっと一緒に遊ぼうねって言ってくれたのは嘘だったんじゃないか。

 こんこん、とドアを叩く音がした。ぼくがぐずりと鼻をすすり上げると、ドアの向こうで姉ちゃんが静かに笑った。


「なにがおかしいの」

「泣いてるんだ、皐太くん」

「嘘つき。どっか行って。もうぼくとは遊んでくれないんでしょ。ゲーム機もカードもぜんぶ捨てちゃうから」

「それは困っちゃうな。私、この家にはこれからもお世話になるつもりなのに」

「もう来ないくせに」

「来るよ。そのうち、またね」


 また嘘をついた。結婚するというのが自分の家庭を持つことで、自分の家庭を持てば遠くへ離れて行っちゃうことくらい、十一歳のぼくだって知っている。物心のつく前からそばにいてくれた、優しくてお茶目な姉ちゃんはもうここにはいない。いるのは、あの手この手でぼくをだまそうとする姉ちゃんのニセモノだ。


「あのね」


 衣擦れの音がした。姉ちゃんは膝を曲げ、ドアの向こうのぼくに背丈を合わせた。


「わたし、皐太くんが嫌いになったわけじゃないよ」


 ぼくは嫌い、と反射的に叫んでしまうのをぼくはこらえた。


「たしかに皐太くんとは少し距離を置いちゃうことになるけど。苗字が変わっても、住む街が変わっても、わたしにとって皐太くんは大事な大事な人。きっと皐太くんにとってもそうだと思う。だからね、今だけ、一言だけでも、わたしのことを応援してほしいの。大好きな皐太くんに『おめでとう』って言ってもらえたなら、わたし、もっと幸せになれるの」


 抱き締めて丸めた背中越しに、姉ちゃんの声がする。

 包み込むような優しい声。作り物だとしても、温かくて勇気のもらえる声。

 姉ちゃんと過ごした最初の記憶は、たしか道端で転んだぼくを、姉ちゃんがおぶって家まで連れ帰ってくれた時のことだった。汗ばんだ、大きな姉ちゃんの背中にしがみつきながら、いつか大きくなったら今度はぼくが姉ちゃんを支えてみせるのだと誓った。

 もう叶わない、たったひとつのぼくの夢。

 時間も、背丈も、間に合わなかった。


「ぼくが……」


 ぼくは声を張り上げた。リビングのソファでおろおろしているだろう自称婚約者の男に、ぼくが姉ちゃんを幸せにしたかったんだって怒鳴ってやりたかった。けれどもどうしても声にならなくて、しばらく肩を震わせて、やっとの思いで姉ちゃんの言葉を繰り返した。


「……おめでとう、美南みなみ姉ちゃん」


 頭のなかは真っ白だった。真っ白な世界の真ん中で、真っ白なドレスを着て、真っ白な歯を見せて微笑む姉ちゃんがそこにいた。世界一きれいになった姉ちゃんを、ぼくの言葉でよごすことがどうしてもできなかった。姉ちゃんには笑っていてほしいし、幸せでいてほしい。他に願えることなんて何もない。ぼくはもう、ぼくをだます道しか選べないのだ。

 ああ、神様。

 嘘つきになったぼくを許してよ。

 嘘をついても姉ちゃんの隣に並べなくなったぼくを、どうか大きな声で笑ってよ。


「ありがとう」


 耳元で姉ちゃんの声がした。


「皐太くんならそう言ってくれるって信じてた。……大好きだよ」


 ぼくは首を振った。ほんとうは今すぐドアを開けて、姉ちゃんの首にしがみついて、見知らぬ男を威嚇してやるつもりだったのに、胸がいっぱいで動けなかった。ちゃんと向き合って、ちゃんと顔を見て、おめでとうと言葉をかけるのは結婚式の時でも間に合うかな。




 おめでとう、姉ちゃん。

 大事な大事な、嘘つき姉ちゃんを祝福するために。

 ぼくはこれからも嘘をつき続けてやる。

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