03:【少年】が死んだ日 [性描写あり]

 夏休みの中頃、どんよりとした空模様の登校日。雨催いの空を見てそそくさと帰った友達の背中を見て、なんだか置いていかれたような心持ちで帰宅すると、明かりのついていない薄暗いリビングで、お母さんが汗だくになって男の人と抱き合っていた。


 んっ、ふぅ──

 甘ったるくてじめじめした息遣いが、玄関まで聞こえてきた。


「ふぅ……、そろそろ健司けんじくんが帰ってくるんじゃないか?」

「んっ、だいじょうぶ、きっとお友達と遊んでくるもん……っ、だからぁ、だからもっと、いっぱいしよ?」


 お母さんのいるリビングは玄関から真正面に位置する場所だというのに、僕が帰ってきたのにも気付いていない。夢中になって、僕のクラスメイト・宮野みやの芽郁めいのお父さんと裸の身体を絡み合わせていた。

 何をしているのか、わからなかった。

 でも、なんだか見ちゃいけないものだとわかって、僕は一度入った家を飛び出した。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

 ただ無性に怖くて、僕は必死に走った。胸が痛くて、喉が痛くて、足も痛くて。それでも僕は走った。走って走って、忘れようとした。


 怖かった。

 いつもお父さんと仲がよくて、たまに怒るけど大体優しく笑っているお母さんが、見たことのない顔で、普段とは別人みたいに甘えた声で体をくねらせながら宮野のお父さんを見つめているのが。


 怖かった。

 小さい頃から一緒に遊んだりして、そのたびに僕のことを「ほんとの息子みたいだな」なんて可愛がってくれた宮野のお父さんが、あんなギラギラした目でお母さんの体に覆い被さっているのが。


 怖くて、怖くて、怖くて、忘れたかった。

 忘れなきゃいけないと思うのに、なんで。


 お腹の奥が熱くて、腫れたような痛みがやまない。

 心臓がドキドキ鳴って、あぁそういえば1学期の授業で習った──あれは、お母さんと宮野のお父さんがしてたのは、セックスだ。

 お母さんは、宮野のお父さんと子どもを作るの? いや、あのふたりはそんな様子なかった。ただその場の限りの、あんな格好してるのにすごく楽しいことをしているみたいな感じ。

 たぶん子どもを作るとか親になるとか、そういうことなんて全然関係ない──お母さんと宮野のお父さんはセックスが楽しくて、セックスが好きだからあんな風に夢中になってたんだ。


 あんなお母さんを見たのは、初めてだった。

 普段のお母さんからは想像もつかない姿は思い出すだけで怖いけど、それと同時に。


 思い出すだけで心臓が跳ねて、苦しくて。

 それに苦しいのは、心臓だけじゃなくて。

「はぁ……、はぁっ、は────っ、」

「あれ、野々村ののむら?」

 痺れるような感覚が全身に広がって、立っていられなくて。いつしか着いていた公園でしゃがみ込んだ僕に声をかけてきたのは、宮野だった。


 濡れた服から透ける肌で、雨が降っていることに気付いた。けど宮野は僕の視線に気付いていないのか、「すごい濡れてるじゃん、うちで乾かしてきなよ! お風呂も入る?」と声をかけてくれて。

 ……けど、僕はそれどころじゃなくて。


 宮野のこと見ても、今までも何もなかったのに。

 一緒にお風呂に入ったこともあるし、小さい頃遊びに出掛けたときなんて車のなかで一緒に着替えたりしてたから裸なんて家族のくらい見てるはずなのに。

 おかしい、こんなのおかしい。

 服から透けている肌を見ただけで、さっきのお母さんの姿が重なる──そうだ、宮野とお母さんの違いって、“子どもか大人か”だけなんだ。僕と、宮野のお父さんの違いも。


 痛いくらいにうずく熱が広がっていく。身体中ぐっしょり濡れてちょっと冷たいのに、ズボンだけはすごく温かく感じた。

 どくん、どくん──身体の真ん中の少し下で、ずっと走った後みたいに騒ぐ熱が、どうしようもない焦りや渇きと共にうごめく。熱はそのまま、僕の頭のなかまで乗っ取ってしまうようだった。

 とても見せられないから、ズボンが目立たないように前屈みになって立ち上がる。そうすると、僕に手を差し伸べるために屈んだ宮野の無防備に開いた胸元に目を奪われて。またひとつ、タガが外れたような感覚。


「宮野」

 最近ちょっとだけ掠れて、お父さんから『声変わりしてきたんだな』と微笑ましそうに言われた声で、先を歩こうとする宮野を呼び止める。


 どうして呼び止めたんだろう?

 でも、宮野の家にはきっと宮野のお母さんがいる──だから、呼び止める理由になるのか? 自分でもわからない……わからないけど。


 降り始めた強い雨のせいで、周りには誰もいない。よく来る近所の公園も、誰もいない雨のなかだと見知らぬ場所みたいだ。

「あそこでさ、雨宿りしてかない?」

 何気ないように指差したのは、無人の四阿あずまや。雨は強くて、周りの音はよく聞こえないし、ここで出す声も、きっと周りには聞こえない。


 そうしよっか、と返して慌てて駆けていく無防備な背中を見る僕の息は、自分のものとは思えないほど荒くて。

「……ははっ、」

 開き直って軽く笑った声も、僕のものではないみたいに大人びて聞こえた。

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