第62話 絶対絶命

伸ばせばすぐ届きそうな場所に女が立って、じっと黙って俯いていた。


――ついに、家に入って来てしまった。


(ココじゃだめだ、縁側に……!)


 『縁側に行かなければ』。


 真は咄嗟に逃げ出そうと後退り、脚を縺れさせてその場に尻もちをついた。


 直ぐに立ち上がろうとするが、パニックになったままの体は上手く操れず、背中側に手を付いたまま無駄に床を蹴る。


 女は動かない。


 近寄りもせず、俯いているのにその顔は覗き込めない。床に尻もちをついている真なら、見える筈なのに。塗り潰したように真っ黒で、輪郭さえ分からない。


「い、や!……」

 いつもの夢だ、と直ぐにわかった。


 眩しい日差しと、それに反して何故か暗く感じる土間。

 今日も縁側ではない。俯いた視界のままでも、それがわかった。


 電話の音はしていない。

 それどころか、何の音もしない。

 いつも聴こえていた、蝉の鳴き声さえも。


「――ッ!!」


 周囲を見回そうとして顔を上げた真の喉から、空気が通り抜けたような音が鳴った。


 女が立っている。


 玄関の引き戸の前、真が腕を


 女が手を伸ばしてくるのが見えて、訳も分からないまま真は悲鳴を上げようとした。しかしそれも、直ぐに止められる。


 女はその場から一歩も動いていないのに、腕だけが別の生き物のように伸びて真の首に触れた。

 一瞬の筈で、けれどスローモーションの動画のように嫌にゆっくりと見えた。


 蛇のような湿度を感じる冷たい指が、ヒタリと真の首に巻き付く。

 即座に身を捩ったが、もう遅かった。


「ぐ、はなし、でぇ……!」


 指は弄ぶように徐々に力を強めて、真の首を絞めていく。


 真が力尽くで一本の指を剥がすと、どこからか指が一本増えてまた巻き付いた。必死に指を剥がすが、全て徒労に終わる。


「……て…………て……」


 女は何か呟いているようだった。

 頭が圧迫された様に痛んで、耳の傍に心臓があるかのように煩い。


 ――否、喋っているのではない。


 女は歌っていた。

 横断歩道を渡る時によく聞くメロディを、楽しそうな声で歌っているのだ。


 そのまま、腕はゆっくりと天井に向かって持ち上がっていく。真の足が爪先立ちになった頃、女が顔を上げた。


 その顔は先程の様に塗り潰されてはおらず、真は初めて女の顔を見た。


 女の顔は目も口も真っ黒の線で三日月の様に描かれた、クレヨンで描いた子供の落書きだった。


「〜〜〜〜……ッ」


 それに気付いて、真はゾォッと全身に鳥肌を立てた。


 今更ながら、女が人外のモノだと改めて認識した。

 声が出るなら、間違いなく大声で悲鳴をあげていただろう。


 真の爪先が宙に浮いて、首に体重がかかる。

 指はとっくにしっかりと真の首を絞めあげて、もう、肺の酸素は保たない。


 首に伸ばした真の手も、力が入らず縋り付いているように爪を立てるだけだ。


(死ぬ、私……やだ、やだ!)


 パニックになって脚を我武者羅に動かしたけれど、女の指はびくともしない。唇の端から涎ばかり溢れた。

 頭に血液が全部集まって、もう直ぐ破裂してしまいそうだ。


(誰か、誰か助けて……!!)


 きゅう、と、喉の辺りから聞いた事もない音が聞こえた。


「――真!!」




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