第61話 無力な夜

 コンコン。


 二回、いつもより気持ち控えめなノックの音がして、少しの間の後に美琴が部屋の引き戸を開けた。真っ暗な部屋を目だけで真を探す。


 ベッドにうつ伏せに寝転んでいる真を見て、細い眉を顰めた。


「マコ、ご飯は」

「……食欲ない」


 枕に顔を埋めている為、声はくぐもって聞き取り辛い。

 けれど、正確に読み取った美琴は、肩の力を抜いて優しい声を出した。


「そ。腹減ったら食べな。ラップしといてあげる」


 真は会話を拒否する様に無言だったが、美琴は特に気にした様子もなく引き戸を閉めた。


 再び静かになった部屋の中で、真は何をするでもなくぼんやりとしていた。


 天気頭痛なのか、波のような頭痛に時折襲われては顔を顰める。

 全身の倦怠感も鬱陶しく、普段だったら直ぐに眠っていただろう。


(あの夢を見始めてから、全部上手くいかない……たった一週間なのに……違うか……ゆうり言ってた……多分、我慢してくれてたんだ……今まで、全部)


 何も知らなかった。

 一番の親友だと思いながら、何も。


 いつもの様に、睡眠に逃げる事が出来れば良かった。


 けれど、今あの夢を見たら真はとても立ち直れない。

 それどころか、下手すればもう目を覚ます事が出来ないかも知れない。何故かそんな予感がした。


 思春期の逃亡性か、それも良い案なのではないかと脳裏を過ぎる。


(なんだっけ……呪文……オン、コロコロ……)


 呪いを跳ね除けるおまじない。


 真は脳裏に呼続が教えてくれたおまじないを思い浮かべるが、続きが出て来ない。

 貰ったメモを鞄から取ろうという気力も湧かない。


 遠くから、美琴が観ているらしいテレビの音が聞こえた。


(喧嘩なんて、した事なかったな……)


 ゆうりが真の通う小学校に転校してきたのは、真が九歳になった頃だった。


 初め、真とゆうりは親しくもなければ、挨拶も交わさない関係だった。

 今思い返しても、何故二人で過ごす事になったのか、そのきっかけは思い出せない。ゆうりに尋ねた事も無かった。


 気付けばゆうりは真と一番仲良くなり、真はゆうりを一番信頼した。


 真はゆうりを外に遊びに連れていき、夏休みも毎日一緒に遊んだ。


 ゆうりの両親は仕事が忙しく、ゆうりは毎日真の家にいた。美琴にはゆうりの母から何度もお礼の電話やお土産が届いた。

 美琴も、真がゆうりを見倣って宿題を毎日きちんとするようになったので甚く関心していたのを覚えている。


 修学旅行も、放課後も部活も毎日ゆうりと一緒にいた。


 それでも、今まで一度もゆうりと喧嘩をした事がなかった。

 真は何も我慢していなかった。ゆうりに苛立つ事すらなかった。

 それは、ゆうりが今まで我慢していたからなのだろうか。


 先程の電話で、低い声で真に心の内を告げたゆうりの声が、何度も何度も勝手に再生される。


 ゆうりがあんな声を出したのを、真は初めて耳にした。


(メッセージ送って、謝ったら……でも、送られてきたら嫌かな……)


 こんな風に悩んだ事だって、一度もなかったのだ。


 鼻がツンと痛くなった。

 ひくり、と喉が震えて、目から勝手に熱い涙が出てくる。美琴に聞こえないように、必死にしゃっくりを噛み殺す。


 こんなにも涙が出たのは、父が亡くなった日以来だ。

 あの日も、泣いても泣いても涙が出た。


 柔らかい枕に涙が染み込んでいく。窓を叩く雨の音を聞いて、そのまま真は沈む様に眠った。



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