第56話 レインコートの男

 怒鳴り声に怯んだ真に満足したように、男はニヤリと笑うとまた腕を伸ばした。

 今度は傘ではなく、真の腕を掴もうとしている。


 真が身を捩ってそれを避け、大きく息を吸い込んだ瞬間――


「おい、何やってるッ!!」

「!!――チッ」

「おいこら!! 待て!!」


 突然背後の、バス停のある大通りから若い男の怒鳴り声がした。

 レインコートの男は舌打ちすると、すぐさま身を翻して細道を奥へ奥へと逃げていく。


 若い男は短く咆哮のような大声を出して、通学鞄を男に向かって投げた。


 しかし、軽すぎて当たってもダメージがなかったようだ。

 尚も追いかけようと駆け出したが、横を通り抜けようと真の顔を見て足を止めた。


「えっ伏見!?」

「東浦……」

「お前大丈夫かよッ!?」


 制服に身を包んだ東浦は、真の顔を見ると目を大きく見開いて固まった。

 

 その一瞬の間に男は細道を曲がり、どこかへと行ってしまう。

 真は男が曲がった方角をしっかり見て、安堵からため息を吐いた。


「大丈夫か?」

「うん……ありがとう。よく気付いたね」

「なんか声がしたから覗いたら、裸にカッパ着てる男とうちの制服の女子いたから……」


 東浦はそう言うと、真を先に行かせて細道から出す。その間に自分は足早に鞄を取りに行った。


 東浦の言葉に真は驚いて振り返り、細道と東浦を交互に見た。


「え、裸だった!?」

「気付いてなかったのかよ!!」

「うん……え、気持ち悪……」


 東浦が信じられないと言いたげに顔を歪めた。真も不快感を隠さずに表情に出す。


 大通りに出ると、東浦は大きくため息をついて、その場に投げ出された自分の物であろうビニール傘を拾った。


「ハア……とりあえず警察呼ぶか……バス通りなら人気がある方が安心だろ。てか、何でこんな裏道入るんだよ……」

「コンビニ行こうと思って」


 真が言い訳するように早口で言うと、東浦はまた大きく溜め息を吐く。その体は雨でじっとりと濡れて、髪からも滴が垂れている。


「不審者出てるってホームルームでも言われただろ。変な道通るなよ! 俺が来なかったらお前、どうなってたかわかんねえぞ……!」

「……う、うん。えっと」

「気持ち悪ぃ変態! まじふざけんなよ!」


 東浦は憤慨しているようで、真の言葉は届かなかった。

 焦って名前を呼ぶが、子供のように片足で地面を蹴り付けながら、東浦は尚も吠えた。安心した途端怒りが湧いたようだ。


「東浦、落ち着いて」

「……無事で良かったけど……あー! くっそ! アイツボコボコにしてやれば良かった! もっと鞄に死ぬ程辞書入れてタコ殴りにしてやれば良かった!! 伏見ももっと大声出すとかしろよ!! クソ……」

「は!?」


 東浦は怒りの余り真にまで当たり始め、それを聞いた真は思わず尖った声を上げた。


 睨み合う中、東浦が助けてくれた事すら真の頭から抜け落ちた。


「咄嗟に声なんか出る訳ないじゃん! 助けてくれたのは有難かったけど! なんでそんなに怒るの!」

「怒るに決まってんだろ!!」


 即座に大声で東浦は言って、尚もまっすぐ真を睨み付けた。


 恐らく、本人も何をそんなにも怒っているのか分かっていないのだろう。けれど、真も怒鳴られる謂れはないのだ。


 自然、声は鋭くなっていく。


「だから、なんで!? 私悪くないじゃん! しかも何で東浦がそんなに怒るわけ!? ただのクラスメイトじゃん!!」

「お前はそう思ってても俺は違うだろ! 心配するに決まってるだろうが!!」

「は!? なに、」

「そんなんお前の事が好きだからだよ!……!!」

「……」


 東浦が地面に怒鳴り付けるように言って、数秒固まった後、今更我に返ったように顔を上げた。すぐにぐりんと顔を背け、真から目を逸らす。

 真も先程までの怒りを忘れ、茫然と同じように黙り込んだ。


 沈黙の中、先程より激しくなった雨の音だけがザアザアと耳に付いた。


「何、今の」

「……最悪だ!!」


 真がか細い声を出すとほとんど同時に、東浦が叫んだ。


 その顔は真っ赤に染まり、良く見ると耳まで赤くなっている。

 雨の中でもハッキリとわかったそれに気付いて、真は開きかけた口を閉じた。


 そのまま、暫しどちらも口を開けずにいた。


 二人で傘も差さずにずぶ濡れになって、ぼんやりと地面を見ていると、東浦が顔を上げたのが気配で分かった。真は顔を伏せたままだ。


「こんな風に言うつもりじゃなかったけど」

「……」


 黙ったままの真に、東浦が先程とは打って変わって小さな声で言った。覚悟を決めたような、緊張を孕んだ声だ。


(……やめて)


 真は頭の中で何度もその言葉を繰り返した。体が重い。雨で濡れた体は冷え切って、ここから逃げる事もできない。耳を塞ぎたくても、指の一本も動かない。


 そのままずっと、雨が跳ね返るアスファルトを見ていた。

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