第34話 母


 玄関のドアを開けると、定時上がりで先に帰宅していた美琴が夕食を作っているのが気配と音でわかった。

 真は大きな声で「ただいま」を言い、まっすぐ洗面所に向かって手を洗う。いつも通りの怠そうな「おかえり~」の声が返ってきた。


「仕事お疲れ様。お弁当ありがとうございマス」

「あいよ。喜びな、晩ご飯はカレーだ」

「やった〜」


 大袈裟に言う美琴に、真は素直に喜んだ。玄関に入った時から漂う、嗅ぎ慣れたスパイスの香りに真は当然気付いていた。嬉しそうにカレーの入った鍋を覗き込む真を見て、美琴はついフンと鼻で笑った。


 そのまま、着替えもせずにだらだらと美琴に話しかける。


「今日、初めて保健室行ったんだけど、めっっちゃイケメンいた」

「お? まあ詳しく話しなさいよ」

「んや、お母さん好きじゃない系のイケメン」

「なーんだ。棒切れか」


 そう言って詰まらなさそうに美琴が口を尖らすので、真はつい声を上げて笑った。


 美琴は今時の薄い体の男が好きではなく、アイドルも俳優も「棒切れ」と称してあまり関心がない。

 亡き父も逞しい胸筋と木の幹のような立派な腕を持っていたので、真は自分がイケメンに興味が薄いのは母譲りなのかも知れないと、こっそり思っていた。


「これかき混ぜて」

「はーい」

「待って、その前に着替えてこい」


 同じ返事をして、真はいそいそと自室に戻る。


 セーラー服の上を脱いだ所で、胸元のネックレスの存在を思い出した。そのまま、キャミソールにスカートだけを履いた姿で美琴の元へ駆け戻る。


「見てこれ、ゆうりがくれた!」

「へー、いいじゃん。……え、花? マコ、あんた分不相応って言葉知ってる?」

「うっさい! ゆうりは真にピッタリだし超似合うって言ってくれた!」

「はいはい。……あんた、何そのカッコ。露出狂みたいだからさっさと着替えな」

「へーい」


 ネックレスを自慢したかっただけの真は、顔を顰める美琴の言葉を聞いて素直に部屋に戻った。


 真の部屋はキッチンのほとんど隣なので、美琴が然程声を張り上げなくても会話が続く。


「マコ、そういえばこの間話した変質者、今度学校の方で出たって」

「ええ……気持ち悪ぅ」

「気をつけなよ。いつもゆうりちゃんと帰ってんでしょ? なるべく一人にならないようにしな。変なの見かけたら二人で走って逃げるんだよ」

「わかったぁ。……それにしても、どんな変態なの?」

「さあ……今の所、見せびらかしてくるだけらしいけど」


 何をとは、言わずもがなだ。


 真は苦い顔をして、部屋着のショートパンツに履き替える。


 ふと、明日は一人で帰らなくてはいけない事を思い出した。


 学校の近くに不審者が出たというのに。


 一瞬嫌な気持ちになったが、学校からバス停は近く、歩いて五分もかからない距離だ。すぐ傍に教師が多い事を考えれば、普通の道よりは安全ではないだろうか。


 そう自分を安心させた真に、美琴は低く言った。


「エスカレートしていくもんだから、本当に気を付けて」

「ほい」


 然程深刻に考えずに短く返事をして、真はおたまを受け取ってカレーをかき混ぜ始めた。


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