第15話 朝に逃げる

 目が開くのと同時に、上半身が勝手に飛び起きた。


 そのまま慌ててその場から逃げ出そうとして、やっと、そこが柔らかいベッドの上である事に気づいた。買って貰ったばかりの、黄色の小鳥柄のシーツや、壁に貼られたゆうりとの写真を順繰りに見ていく。


「……ゆめ……」


 思わず口から小さく溢れた声は掠れ、迷子の幼児の様に震えていた。

 

 真は荒い呼吸を整える為に大きく息を吸って、ゆっくり吐き出す。そのまま意識的にゆっくりとした呼吸を繰り返す。

 全身から嫌な汗が出て、こめかみから顎へ流れた。

 力を抜くように目を閉じると、脳内に夢の内容がフラッシュバックして慌てて瞼を上げた。


 逃げ出そうと中途半端に身体をよじり、ベッドについた手は震え、何度も肘が折れて崩れ落ちそうになるのを必死に支えている。


 間違いなく、高校生の自分が住んでいる家だった。

 あの夏の祖父の庭ではない。


 ドン!と、前触れもなく部屋のドアが強く揺れた。ヒ、と小さく喉から悲鳴の欠片が絞り出る。

 次いで、耳慣れた声が真を呼んだ。殆ど怒鳴っていると言っても過言ではない。


「マコ、遅刻するよ!」

「お、お母さぁん……」


 仕切り戸の様な横開きのドアを続けて軽く叩いて、ドアの向こうから美琴が呼ぶ。

 その声に真は心底安堵して、震える声で再度母を呼んだ。そのまま、転び出るようにベッドから足を出す。


「……あんた顔真っ青。どうしたの?」


 ドアを開けて、毎朝見ている顰めっ面で部屋を覗き込んだ美琴だったが、真の顔を見るとすぐさま声の調子が変わった。


 今起きたばかりだろうに、真の顔は血の気が引いており蒼白で、額や首筋に目で見える程大粒の汗をかいている。

 美琴は慌てた様子で部屋に入り、ベッドの横に膝をついて娘の顔を覗き込んだ。よくよく顔を見ると、目の下にはハッキリと隈が出来ているのがわかる。


「体調悪いの? 今日休む?」

「や……怖い夢見た……」

「は? 夢って……そんな、今にも吐きそうな顔して……熱は? ないか……大丈夫? 他にしんどいとこは?」

「大丈夫……学校、行くよ……」


 真の額や首筋に手を当てて、美琴が難しい顔をする。


 水仕事をしていたのか、掌はひんやりして気持ちよかった。真はその手に少し安堵し、そのままゆるく頭を振る。


 学校を欠席し家にいれば、やる事がない真は絶対にまた眠ってしまう。

 眠ってしまったら、またあの夢を見るかも知れない。もう二度と夢を見たくなかった。


 美琴は仕事に行くので、家は真だけになってしまう。


 一人きりの家で、また夢を見たら。


 そう考えて真は体の芯から冷えていくのを感じた。


 美琴は暫く心配そうに真を見ていたが、のろのろと立ち上がり登校の準備を始めた真を見て渋々納得したようだった。出勤の支度を再開する為に、真の部屋を後にした。


(どうにか夢を見なくなる様にしないと……疲れてるならマッサージ? それとも、ホラー映画みたいに……呪われてる、とか……?)


 映画や漫画で、非科学的な現象に遭う登場人物に対して「どうしてすぐにオカルトが原因だと思うんだろう」と真は思っていた。

 けれど、「何かがおかしい」という説明のできない出来事への強い不安は、非科学的なものへの疑念を取り払ってしまう。所謂「藁にも縋る」ような状態になれば、お祓いでも何でも手を出すだろう。今の真のように。


 自他共にめる楽天的な真だが、連日見る夢のせいで疲れが取れず、心身ともに負荷がかかっている事は明らかだった。


 頭の中は欠片も落ち着かない。

 疲労を第一の可能性にあげたが、現実生活で大して強いストレスも感じていない。むしろ夢を見る事が最大のストレスと言えた。


 『この夢には何か意味がある』という、確信めいた考えが脳裏にちらつく。


(頭使うの、向いてないんだって……何にも浮かばないよ……なんでお祖父ちゃんの家なの? ずっと住んでた家でもないのに……)


 出来る事なら、誰かに代わりに考えてほしい。他力本願になりながら真は溜息を吐いた。

 制服に着替えてリビングに行くと、美琴が真専用の楕円のお弁当箱に、菜箸でちまちまと中身を詰めていた。


「マコ、あんた朝ご飯どうするの」

「……食欲ない、ごめん」

「じゃあ昨日のオムライス、お弁当にしちゃうから」

「ありがと」


 覗き込むと、いつも白米が入っている段は空っぽだった。おかずの段は主に冷凍食品の野菜達がぎゅうぎゅうに押し込まれている。


「体調悪かったら早退するか、保健室行くかしな。……って、あんた、保健室の場所わかる?」

「う……多分。行った事ないけど、説明された、と思う。……多分」

「娘が健康で嬉しいよ、あたしは。ついでにもう少し頭も良かったらねぇ」

「うっさい!」


 やれやれ、と呆れたように肩を竦める美琴を見て、真は幼児の仕草で頬を膨らまして見せた。さっきまで母性の塊みたいな顔をして、あんなに優しかったのに、すぐ揶揄うのだから。


 母が冗談で揶揄っている事も、元気付けようと明るい声で話してくれている事も解っていた。だから真も、子供らしく甘える事が出来るのだ。


「いってきます!」

「寄り道すんなよぉ」


 これ以上美琴に心配をかけない為に、弁当包みを受け取ると、真は元気よく声をかけて家を飛び出した。


 玄関まで見送りにきた美琴が、ひらひらと片手を振って見送ってくれた。

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