第14話 ここにいるよね(2)


 眠れない。


 時計を確認すると午前三時を回っていた。家を出るまで後四時間程……もう良い加減に眠らないと後の自分が辛い事を、流石の真も解っていた。

 体は疲れており、目を閉じると眠る前独特の浮遊感が襲ってくる。


(もう眠った方が良いよね……もしかしたら今日は夢を見ないかも知れないし)


 楽観的に考えようと、目を閉じて寝返りをうつ。


(……でも、あの夢は普通じゃない)


 理由のない確信が真にはあった。明日の事を考える。明日と言っても、もう数時間後の話だ。


 四限目に体育の授業がある。昼休憩前の体育はクラス中が文句を言うけれど、真は机にじっとしているよりも体を動かしている方が楽しいタチなので、どの時間だったとしても嬉しい。


 今回の授業から女子はバレー、男子はサッカーをするらしい。バレーも好きだが、走り回るサッカーの方が嬉しかった。東浦と交換出来ないだろうか。東浦が女子に混ざってバレーをし、自分が東浦の代わりにサッカーをすれば良いのに。


 真は、いつもの縁側に立っていた。遠くから聴こえる蝉の声。他には何の音もしない静かな家。目の前の大きな桃の木。胸の内に嫌な気持ちが渦巻いている。


 何度も見た夢なのに、慣れる事はなかった。

 女は、夢を繰り返す事に真に明らかに近付いている。真の目は塀の向こう、女の気配が動く事に、そろそろと合わせて動いていく。


(……くる)


 女が姿を現して、音もなく進んでいく。足がある事が不思議に思える程静かな動きだ。


 これは夢なのだから、強く念じればその通りになるのではないだろうか。

 頭の中で、来るな、来るなと念じる。

 女が踵を返して姿を消す想像をしてみる。でも、それは上手くいかない。下手に女の事を考えると、もっと悪い事が起こるような気さえするのだ。


 女は嫌になる程ゆっくりと進んでいる。

 はあ、はあ、と荒く呼吸をする、自分の呼吸の音がそれ以上に大きく聞こえてくる。


 女の手がまっすぐ上がった。いつの間にか、もう、玄関の前だ。頭が真っ白になり、想像も思考も霧散した。


 その戸は開かない。鍵がかかっているのだ。前回もそうだった。あの女は中には入ってこられなかった。そういう風に出来ているのかもしれない。


 女の白く細い指が戸にかかった。


(開かないで! 来ないで!)


 ガチャン。


 重たい音がして、玄関は開かなかった。鍵がかかっているのだ。


 耳が痛くなる程の静寂が辺りを包む。


 女はそのまま静止した。真は叫び出しそうになりながら、視線を逸らせなかった。


(……良かった)


 あの女はやはり、この家には入れないのだ。

 理由はわからないが。


 真が安堵から、詰めていた息を吸おうと体の力を抜いて、震える睫毛を伏せた。


 次に目を開けた時、真は縁側ではなく玄関の内側、土のような匂いのする土間にひとり立っていた。


 大きな戸には木の支えと共に磨りガラスが嵌め込まれており、薄ぼんやりと、けれど嫌に大きく、女の影が写っている。


(なんで……!?)


 真は叫び出しそうになるのを必死に堪えた。


 どうして玄関の近くに移動してしまったんだろう。『あそこにいれば安全なのに』!


 焦りと苛立ちがないまぜになって、真は子供のように地団駄を踏みたかった。欠片も体は動けないけれど。


 今すぐに縁側に戻らなければ。


 真が焦っているその間にも、女は戸に手をかけたままだった。確かにそこにいるのに、女からは生気のようなものを感じなかった。


 背を向けてどこかへ行って欲しい。もう二度と、此処へは来ないで欲しい。


 真は何度も強く念じた。焦りは苛立ちに変わり、苛立ちは不安を呼んだ。

 時間感覚を失った真の耳に、音が届いた。


 ガチャン。


(……え)


 ガン!

ガチャガチャガチャ!


 ぞ……、っと、真の全身に一気に鳥肌が立った。


 それは女が引き戸を連続して何度も引いている音だった。力の限り、戸を壊さんばかりの勢いで。

 耳元でバクバクと心臓が嫌な音を立て始めた。


 怒っている。


 戸が開かない事に、女は明らかに苛立っているようだった。


 喉が引き攣れ、細い悲鳴が搾り出そうだったが、真は何とかそれをおさめた。いつの間にか動くようになった口元に手を当てて、出そうになる声とも呼べない音を何とか堪える。


 ガチャガチャ!

 ザリ、ザリザリ!


 突如、ざらついた音が混じり始めた。

 何の音かと思えば、女がパンプスで地面を擦っている音だった。ザリザリと激しく地面を擦る音。その不規則な音が、女の苛立ちを現しているようで、真は益々パニックになった。


 これが現実だったら、とっくに逃げ出していただろう。けれど、これは夢なのだ。夢からは、誰も逃げられない。


 ガン!


 ヒ、と真の喉から、抑えきれなかった悲鳴が溢れた。


 突如、気がおかしくなる程の静寂が辺りを包む。まるで真の悲鳴が、女に届いたかのように。


 神経が過敏になって、葉の落ちる音さえ耳で拾えそうだ。


 再びの沈黙の中、カリ、と耳を塞ぎたくなるような不快な音が聞こえた。

 真の全身は鳥肌が立ちっぱなしになっていて、震えと身じろぎで衣服が擦れるのが痛い程だった。


 カリカリカリカリ。


「……ぃ……こ……ぃ……ぃ」

「〜〜っ!!」


 低い声と共に、不快な音が耳に届いた。恐らく、戸の木製部分を爪で削る音だ。映像を差し込まれたように、女の爪が戸を引っ掻く姿が、有り得ない画角で目の前に一瞬だけ浮かんだ。


 先程まで耳が痛くなる程、強く戸を叩いていたのに。


 尚も続く不明瞭な声は、同じ言葉を繰り返している。


 真の出会った事のある、誰の声にも似ていない。

 低い声なのに、急に調子が外れた高い音になったりする。合成音声や不協和音のような、本能的に不快だと感じる音。


 突然ガクンと膝が折れ、その場に尻餅をついた。

 頭の中の冷静な部分が、よく今まで立っていられた、と感心しているのがわかった。


 曇りガラスに映る影は、大きさも形も変わらない。

 スカートの端一つ動いていないように見える。それでも、カリカリと戸を引っ掻く音は絶え間なく聞こえてきた。


「…いる……こに……」


 真は口元に当てていた手を、耳に持っていき、呼吸すら止めて耳を塞いだ。先ほどよりも、声は大きく、明瞭になっていた。


(やめて……聞きたくない……)


 けれど、無情にもその声は耳を塞いだ事により、より近くで聴こえるのだ。



「ここにいるよねここにいるよねここにいるよねここにいるよねここにいるよね」


 体を小さくして、出来るだけ気配を殺した。

 いっそ気を失いたかった。けれど、それも叶わない。


 夢からは、誰も逃げられない。




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