第5話 開けないで
雨季は鬱陶しいけれど、夏は好きだ。
夏は、家族揃って祖父の家に行く。真の脳裏に巨大な卓が浮かんだ。木目のハッキリとした、艶々したそこに所狭しと料理が並ぶ。親戚も大勢来るので、ジャンルもごちゃまぜな料理が作る端からどんどん置かれる。
子供達が我先にと肉料理に手を伸ばす。
誰かが大きな声で笑っている声が遠く遠くから聞こえる。水の中にいるみたいだ。大人達はビールを手にして、
――そして、自分は縁側に立っていた。
縁側に立って、桃の木の向こう。塀の向こうを歩く、狂いそうな程ゆったりとしたその足取り。
酔っぱらった親戚の笑い声も、子供が料理を奪い合う声も、もう聞こえない。
蝉の声だけが遠くに聞こえてくる。
堀の向こうで、女はじりじりと歩いていた。
真に向かって、一歩、一歩、あのパンプスに包まれた足はまっすぐに、嫌にしっかりとした足取りで進む。
どうして、こんなにも暗いんだろう。
どうして、誰もいないんだろう。
どうして、見えもしない堀の向こうが、こんなにもハッキリとわかるんだろう。
庭は夏の陽が照って暑いだろうに、真はぼんやりとそう考える。
極度に緊張した時のように、足は一歩もそこから動かせない。目線は、見えもしない女の姿を追うようにどんどん塀の端に向かって動いていく。
(……やめて)
どこか既視感があるその懇願と共に、『女』が姿を現した。
真の記憶にある通り、何も変わらない姿だった。
白いブラウスと、黒いフリルのスカートが、歩く度音も無く揺れる。
女は既に、塀から完全に姿を出していた。
真は耳元で心臓が鳴っているような錯覚を覚え、浅い呼吸を繰り返す。
蝉の声も、もう聞こえない。
何故かはわからないが、『女』は、絶対に悪い物だという確信があった。
この『女』は、絶対に自分に害なすと。その為に毎夜、真の夢に現れるのだと。
(これは夢だから、大丈夫。……絶対に、大丈夫……)
いつも見る明晰夢とは違う。自分の自由に体を動かせない。
これは絶対に、夢だ。ただの悪夢だ。意味なんてない。
頭のどこかでそう思いながらも、欠片も安心できなかった。
目を逸らすなり、逃げ出すなりしたいのに、そのどちらも出来なかった。
視線はしっかりと女に固定され、足は縫い付けられたようにその場から動けない。
(起きろ、目開けて、起きて……)
たまに見る通常の悪夢は、こう念じれば目を覚ます事が出来る。
必死に頭の中で唱える間も、『女』はまた一歩真に近づいた。場違いな程に静かな動きだ。砂利を踏む音も聞こえない。
まるで、生きている人間ではないような。
長い髪に隠されて、女の顔は見えない。
否、たとえ髪を退かせたとしても、その顔は見えるのだろうか。掻き分けても掻き分けても、その顔は現れないのではないか。
女は門から入り、砂利に敷かれた石畳を踏みながらまっすぐ玄関の戸へと向かう。
その動きが自分への直線的な動きではないにも関わらず、真は欠片も安心できない。
その女を家に入れないで欲しい。
真のいる縁側から、玄関の戸は見えない。けれどその戸は閉まっている。『わかる』のだ。これは夢なのだから。脳裏に閉まっている戸のヴィジョンが浮かぶ。
(閉まっているから、大丈夫。『アイツ』は入って来られない。……戸が閉まっているから)
祈るように、念じるように、真は繰り返し戸が閉まっているヴィジョンを思い浮かべた。古い、重たそうな引き戸が、フラッシュバックのように何度も再生される。
暫く繰り返すと、そのヴィジョンに別の映像が差し込まれる。
(……?)
真は初め変化が何かわからなかった。ただの玄関の引き戸だ。先ほどまでと、何も変わらない。
そう思いながらも、映像は繰り返される。そして、不意に腑に落ちた。
それは女の指だった。
画質が荒い映像を見ているように、細部まではわからない。
まっすぐ伸ばされた五本の指は、間違いなく玄関の戸に向かっている。
真はパニックに陥って、目を見開いてそれを見た。
あの戸は開かない。開かない。大丈夫。『あれ』は家には入れない。戸は開かない。本当だろうか。本当にその戸は開かないのだろうか。その戸は開かない。本当に開かないだろうか。
『あれ』の指は、簡単に戸を開けてしまうのではないだろうか。
それが開いてしまったら、私はどうなるの。
開かない。開かないで。
開けないで。
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