9 赤色:隣の花とサクラノハナミ

 明後日から修学旅行が始まるという火曜日のこと。第三学年の教室がある棟には、奇妙な緊張感や不安感が漂っていた。理由は、櫻野さんである。


「え。はなみん修学旅行くるよね?」

「今週なんか撮影あるって言ってたっけ?」

「いや、言ってなかった」

「まさか体調不良……?」

「しかも五日も治らんような? え、マズくない?」

「誰か連絡ついたひといる? ――やっぱ、いないよなぁ。大丈夫なんかな」


 金土日月火。もう五日間、誰も彼女の姿を見ていなかった。先生に聞いても「ご家庭の事情で」としか教えてもらえない。いつもそうだ。


 四月からの学校生活でだんだんとわかったことだが、彼女は金曜と月曜の学校をよく休む。月曜から金曜の五日間すべてに登校してくることは、ほとんどない。


 運動会のあとは、風邪をひいたこともあって一週間も欠席していたけど、それ以外で五日間も休んだことはなかった。しかも今回の欠席については、理由を知っている生徒が誰もいないらしい。これはみんながオロオロするわけである。


 昼休み。あたふたとするクラスメイトを横目に見ながら、僕は櫻野さんのことを考えた。もしも、あの彼女が、修学旅行に来なかったら。


 まず、はなみんファンのやつらは、ものすっっごく落胆するだろう。大ファンというほどではないクラスメイトも、明るく頼れるリーダーさんがいないと寂しくなるはず。

 同じ班になれたことを喜んでいた馬場なんかは特に、朝からショックで体調を崩してもおかしくない。うむ、想像しただけで面倒だ。


 また、彼女がいなければ、僕はクラス委員の仕事をひとりでしなければならない。予定されているのは大した内容ではないが、修学旅行でひとり作業は悲しすぎる。つまり……彼女がいないと僕も困る。クラス委員として、ちょっとだけ。


 それに彼女だって、修学旅行をとても楽しみにしていた。行けなかったら、彼女こそ落ち込んでしまうだろう。きっと泣いてしまうだろう。

 それは、他の懸念事項の何よりも、よろしくないことだった。彼女の悲しむ顔は見たくない。


 なんとなくいつもより集中できずに午後の授業が終わって、僕は帰宅してパソコンと向き合う。彼女が学校に来ないときは、日記に書く内容は少なめだった。


 小説をガーッと書いていき、気づけば時刻は十八時の五分前。僕はワードを閉じてSNSサイトを開き、ある出版社アカウントのページに入った。妙に心臓をうるさくさせ、十八時を待つ。


 デジタル表示が18:00に変わった瞬間、ページをリロードした。数秒おきにリロードを繰り返し、やっと現れた【最終選考結果発表】の文字。

 即座にクリックし、重たいサイトページが表示されるのをじっと待つ。サイトを見られるようになったのは、18:04のときのことだった。心臓はバクバクと騒ぎ、手には汗がにじむ。


 まずは流し読みで、一番下までスクロール。……だよな。うん、わかってた。もう一度上まで戻って、今度は精読していく。総評、編集者からのコメント、受賞者コメント、タイトルやあらすじ。そして最終選考対象者の欄だけにある、僕のペンネーム。


「……また、か」


 これでいったい何度目か。いや、回数そのものは、頭の中ではわかっている。そういうことじゃない。


 この作品を応募したのは、前の冬頃のこと。書き上げたときの手応えとしては、今までで一番の出来だった。自信作だった。今度こそ――そんな気持ちでいたけれど、やっぱり無理だった。事前連絡がない時点で察していたが、こうして目の当たりにすると、みぞおちのあたりがギュッと痛くなる。


 また最終落ちだった。また受賞できなかった。まだデビューできない。何がいけないんだろう。また心情描写だろうか。まだ僕には人の心が欠けていたってことなのだろうか。わからない。どんなに本を読んでも、感情を描く創作術を学んでも。

 人の心が、関わりが、うまく書けない。そうだ、それはわかってるんだ。僕の欠点はわかってる。なぜ直らないんだ。なぜ直せないんだ。僕はいつまでこうなんだ。


 大賞やら受賞やらという単語の下に並ぶ、他のやつらの作品タイトルと名前。調子に乗ったような受賞者コメント。見るとどうにもこうにも悔しくなった。物に八つ当たりしても仕方ないが、パソコン画面を叩き割りたいくらいだ。


 結果を得るためには、書くしかない。もっと書かないと。次で勝たないと。結果発表ページを閉じてワードを開く。苦い焦燥が、まだ胸に燻っていた。


 また打ち間違いも多くなる。今日だけでデリートキーを一週間ぶんくらい打っている気がする。すっと鮮やかに内容が入ってくるような心地よい表現が、出てこない。リズムが悪い。単語選びも最適じゃない。


 落ち込んでいる場合じゃないと思うのに、挫折のあとはいつもうまく書けなくなる。こんなんじゃ駄目だ。もっとメンタルも強くしないと。あのときみたいに、痛みに無関心にならないと。


 駄文だと思いながら、とにかく打つ。あとで直すからと自分に言い聞かせて。

 傷ついた心には、目に見えてわかる成果が欲しい。一番簡単に得られる成果は文字数だ。だからひたすらに書いていく。数字が増えていくのを視界に入れて、自分は前に進んでいると錯覚させる。こうでもしないとやっていられない。


 僕は――これでも、小学生の頃から小説を書いている。


 執筆に興味を持ったきっかけは、小学一年の夏休みに書いた読書感想文で、県のコンクールの金賞を取ったことだった。それから感想文以外の文章も書きたいと思うようになり、まずは自由帳に空想の物語を書くようになった。


 小学二年のある日、父のパソコンで遊んでいたときに、小説公募の存在を知った。初めて応募したのは、子ども向けの短編小説コンテストだった。


 ワクワクして四〇〇字詰めの原稿用紙を買ってきて、自由帳の中から一番にお気に入りの物語を選んだ。紙面の上で文字数を調整し、書き写した。


 あれの結果は、落選だった。しらさぎあらたの名前がない結果発表ページを見た当時の自分の状況は、単に「落選した」と表すべきではないと思う。


「何にもならなかった」「無価値」「無意味」という思いと概念の集合体がいきなり殴りつけてきた、みたいな感覚だった。


 あの小学校低学年の児童らしかった幼い彼、あらたの語彙力では「あの物語のすばらしさがシンサインさんにはわからないのかとショックだった」くらいにしか言語化できなかった思い。


 モヤモヤした。悔しかった。だから書き続けた。小学三年のときに自分のノートパソコンを初めて買ってもらうと、さらに執筆に傾倒した。


 自分は人に認められるべき才能を持っているのだと、愚直に信じていた。実際に、小規模なコンテストの賞は何度か取ったし、図書カードや賞状、作品と名前が掲載された小冊子をもらったこともある。それでも何かが足りなかった。心に穴があいていた。


 本気で小説家を目指しはじめたのは、いつからだったろう。商業デビューに繋がる可能性のある公募だけを選んで参戦するようになったのは、中学に入ってからだと記憶している。


 学校の文芸部に入って息抜きとしての執筆も週に一回以上はしているけど、この二年間で見つめていたゴールは小説家デビューだけだった。でも、叶っていない。


 大人になってみれば、これも厨二病と自己顕示欲をこじらせただけの黒歴史になるのかもしれないな。とは、ときどき思う。自分には小説しかないと思うくせに、どうせ何事も為せずに散っていくのだろうとも悲観する。


 何を直せば、何を足せば、望みを叶えられるのだろう。そもそも本当の望みはなんなのだろう。それもよくわからない。


 僕が小説を書くのには、もっと理由があったはずだ。前はもっと……何か、別のことを目指していた。なんだったろう。書いて書いて書いてばかりで、僕は何か大切なものを見失ってしまった気がする。


 狂ったようにキーボードを打っていた指を止まらせ、息をつく。執筆用のファイルを閉じて、資料のファイルを漁りはじめた。このモヤモヤした感情を晴らすのに役立つものは何かないだろうかと、スクロールする。


「あっ」


 いつかのように「桜野はなみ」に目が留まった。ファイル名は「桜野はなみについて」で、作成日は始業式の日。櫻野さんとの出会いから数時間後、彼女がどんな人物かを知るためにインターネットで調べたことのまとめである。


 見ても、心が癒やされないことはわかっていた。それなのに、僕は開いた。なぜだろう。彼女の活躍っぷりを見れば、ある側面では安心できるからだろうか。


 再読したら、自分と比較して、僕は劣等感に苦しむことになるだろう。けれども同時に、こんなに華やかに生きている彼女なら早死になどするはずないとも思える。僕はきっと、彼女の「病気」「余命」を否定する何かが欲しかった。



 ――桜野はなみがデビューしたのは五歳のときで、出演したのは、僕が唯一まともに見たことがあるテレビドラマ。

 難病の娘を持った夫婦の愛のゆくえを描いた作品で、彼女はその病気の娘役。感動作として話題になり、彼女は天才子役としてその名を広めた。


 それからも数々の映画やドラマに出演した彼女は、十歳のときに国内で最優秀助演女優賞を受賞。演じたのは被虐待児の役で、家族の絆と崩壊を描いた映画本編も、その年の最優秀作品賞を受賞している。


 小学四年生だったこの頃から成長期が来たらしい彼女は、五年生になる頃には身長が一六〇センチを越える。大人びた容姿になった彼女はさらに話題を集め、とうとう映画の主演が決まる。


 彼女が小学五年生のときに撮影し、中学一年生の夏に公開された映画『君は花びらになって、消えた。』で、彼女は余命わずかな女子高生の役を演じた。


 桜野はなみ初の主演映画、初の恋愛物ということで、公開前から話題性は大いにあった。小学生に高校生役なんて……という声もあったが、すっかり成長した彼女は高校生を演じても違和感がなく、公開されてからは、さすがの演技力だと評判になった。


 通称「はなきえ」は見事に大ヒットし、デビュー作で演じた難病少女役や他の作品での薄命少女役の影響もあり、彼女は「余命わずか系女優」というちょっと不謹慎なニックネームをもらう。余命わずか系女優、桜野はなみは、秋と冬のドラマでも病気の少女を演じた。


 しかし……彼女は「はなきえ」公開から数カ月後の冬、突然に女優活動を休止する。休養期間は一年以上に及び、様々な憶測が飛び交った。



 ――秋冬ドラマのところまでで、読むのをやめておけばよかったな。ファイルを閉じて、僕は少し後悔する。


 才能にあふれる彼女は、このさきもたくさんの映画やドラマに出演し、皆を楽しませてくれるのだろう。彼女が健康体で、このまま生き続けることができるのならば。


 また彼女を心配してしまった自分のことが、とても嫌だった。苛立たしかった。


 パソコン画面から離れてまぶたを閉じて、しばらく目を休ませることにする。それでもなお、僕の頭の中には彼女がいた。


『わたしね、実は映画の中だけじゃなくて、本当に病気なんだ。――本当にね、余命宣告、されたんだ』


 あの日。なぜ彼女は僕にこんなことを言ってきたのだろう。びっくりさせたくて冗談で言ったならまだ良いし、理解もできる。ブラックジョークが滑ったというところだろう。


 僕が気にしているのは、これが嘘でなかったときのこと。考えたくもないことだが、彼女が本当に病気になって余命を宣告されていたとして、なぜ僕に明かすことにしたのだろう。わからない。


 ……また、わからないことだ。リアルの人の心も関係も、僕には難しい。今日は自分がほとほと嫌いになる。


 夕飯を食べても、お風呂に入っても、僕の気持ちはサッパリしなかった。布団を被っても全然寝つけず、眠れたのはせいぜい二時間くらいだった。


 イライラしながら朝の支度をして、学校に行く。今日は全員そろうだろうか。櫻野さんは来るだろうか。自分の席で本を読みつつ、頭の片隅で考えた。


 ガララっと音を立て、ドアが開く。


「おはよーうっ!」


 弾けるような声に、教室にいた全員が、示し合わせたかのようにパッと顔を上げた。


 あの櫻野さんが、めっちゃくちゃ元気そうに登校してきたのだ。心配して不安になったことがバカらしくなるくらいに、彼女はキラッキラの笑顔と可愛さを振りまいている。

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