10 青色:隣の芝生とサクラノハナミ

「あ! はなみちゃん!!」

「はなみん、大丈夫だった?! 体調不良?」

「ううん、ちょっとした用事だよ。ごめんね、心配かけて。修学旅行は意地でも元気に参加するつもりです!」


 良かった~~! と、何人かのクラスメイトが大げさに安堵のため息を漏らした。

 彼女は申し訳なさそうにまた「ごめんね」と言って、なぜかこちらに――離れた席にいる僕のほうへと視線を向ける。いったいなんのつもりだ。僕はわざと真横を向いた。


 落選の悔しさで悶々としていたのもあり、彼女のことをずっと考えていたせいもあり、うまく寝付けなかった僕は今も眠いのだ。利口なことに、睡眠不足による不機嫌を自覚している。ついでに、彼女の姿を見たら、胸の中で嫉妬の炎がゆらりと上がったことも。


 櫻野さんが悪いわけではないが、今日は彼女を避けたかった。見たくもなかった。人生うまくいっているやつとは、離れたかった。


 僕がひとりで、自分の都合で、劣等感をこじらせているだけのこと。今日は心の調子が悪いだけのこと。彼女を悪く思うなんて、お門違いもいいところだ。


 それでも――やっぱり、彼女のことを考えて、ムカついてしまった。イライラを募らせてしまった。


 あーあ。櫻野さんは良いよな。きっと親に支えられて、五歳なんて幼さでテレビドラマにメインの役で出演して。天才子役って呼ばれて、最優秀助演女優賞も取って、主演の映画は大ヒットして。


 彼女はきっと、0を1にする苦しみを知らない。無名な一般人がある世界に入って、海中に沈んで泥中に溺れて、その世界で呼吸するために足掻くことを知らない。


 埋もれた場所から這い上がる大変さも知らずに、その生まれ持った外面の可愛さと大人からの無償の愛で地上に立って、誰かに舗装された道を歩いて、誰かに積み上げられた階段を踏んで、簡単に上へ上へとのぼっていく。


 彼女が努力をしていないと言っているわけではないし、そんなこと思ってもいない。


 ただ、彼女は最初から恵まれていて、今もキラキラと眩しく輝くように生きていて、みんなに愛されている。それが憎い。憎たらしい。そう、僕は彼女が憎かった。


「――さぎくん、白鷺くん?」

「……なに」


 鬱屈とした気持ちを胸の中で燃やしながら授業を受けていたら、あっという間に放課後になっていた。僕の機嫌は直っていない。蓄積された疲労のせいか、むしろ悪化している。


 彼女は今、椅子に座る僕を上から見下ろしていた。なんとも腹が立つ構図だ。


「クラス委員の集まり、旅行前の最終確認。行こう?」


 ふわっと笑う彼女の顔は、今日も可愛い。僕は彼女の言葉に、可愛さに、こんなにも心を掻き回されている。


 冗談だって嘘だって真実だって酷い。中途半端に「秘密を教えて」もらったせいで、僕の心はずっと彼女を気にする。もしも本当に病気だったら、余命宣告されていたら。


「あとから行くから、先に行ってて。もう教室の場所もわかるでしょ」


 振り回されていることが気に入らないので、僕は彼女に冷たく当たった。半分以上は八つ当たり。彼女は眉をへにゃっと下げる。


「わかるけど……でも、一緒に――」

「頭が痛いんだ。薬を飲みたいから、もう行ってよ。弱ってるダサいとこ、見せたくねえんだってば」


 いつもより荒い僕の声に、彼女は驚いたように肩を震わせた。僕は見え透いた嘘をついただけなのに、彼女は心底心配だ、みたいな顔をした。いや、もしかすると、そう見えたのも僕が騙されているだけなのかもしれない。


 彼女は有名女優。巧みな演技で人の心を操ることなんて、朝飯前だろう。


 悲しそうな、傷ついたような顔に変わっていったのも演技だ。僕が彼女に満足に構ってあげなかったことへの当てつけだ。


 彼女は、僕のせいでこんな顔をしているわけじゃない。僕が悪いんじゃない。


「ご、ごめん、ね。あの、さき、いくね」


 彼女の宣言に、僕は返事をしなかった。「お、ケンカか?」「なになに痴話喧嘩?」などとギャラリーが騒ぐ。


 そいつらのことも無視して、僕は彼女が出ていった扉と違うほうの扉から教室を出て、わざと遠回りをして集合場所の教室に向かった。


 彼女の隣の席に座るときも声を掛けず、集まりでも会話の必要がなかったので何も話さず、終わると早歩きで学校を出た。


 今晩しっかりと眠れば、この苛立ちも少しは収まるはず。そう思って半ば走るように歩いていると、「白鷺くん!」と忌々しく澄んだ声に呼ばれた。


「待ってっ! 白鷺くん、待ってよ!」


 生憎と、今は彼女の顔を見たくない。振り返らない。


「白鷺くんっ、待って、止まってよ!」


 うるさい声が背後に近づき、僕にぶつかってきた。彼女は両腕で僕のリュックを掴んでいるらしい。僕はまだ振り返らない。


「邪魔なんだけど」

「頭が痛いんだっけ、どれくらい痛い? どこが痛い? 脳腫瘍かもしれないから、ちょっとでも痛みが続くようなら病院に――」

「はぁ? 脳腫瘍なわけないだろ。意味わかんないんだけど」

「だってだって、こんなの大したことないって思ってたら酷くなってたりすることだってあるじゃん! もっと早く病院に行っとけば良かったって後悔することだってあるじゃん!!」


 ずるずると、背後の重さが離れた。やけに感情のこもった声だったな、名演技だな。と思いながら、彼女の顔を見たくなった僕は後ろを向いた。


 どんなに整った顔で人をバカにしているのか、見てやろうと思った。


 彼女は、胸を押さえてうずくまっていた。


「……大丈夫?」


 見るからに大丈夫そうではないのに、口は勝手に言葉を走らせる。ほんのちょっと顔を上げた彼女の唇は、やわらかな弧を描いた。


 彼女が何を言っているのか、何を思っていたのか、このとき僕には1ミリも理解できなかった。


「ふふっ、ふふ……。わたしさぁ、どうせ死ぬならー、心臓か肺の病気で死にたい、って思ってた。それがわたしらしい、死に方だから」

「なんだよそれ」

「そしたら、みんな……喜んでくれるかな」


 彼女と出会って、約二ヶ月。この台詞を聞いた瞬間、僕はサクラノハナミを最大限に嫌悪した。


 あとにもさきにも、彼女をここまで嫌いだと思ったことはない。


 何の病気で死にたいとか、らしい死に方とか。らしい病気で死ねば、みんな喜んでくれるかな。とか。……なんだよそれ。ふざけんなよ。ひとの死を、まだ若い女の子の病死を、本気で喜ぶやつがいるわけないだろ。バカなのか。

 

「……本当に、君の発言の軽率さには呆れる。そんなこと考えて、今までの映画やドラマでも演技してたのか? 実際に病気で苦しんでいる人に失礼だとは思わないのか?

 なにが『余命わずか系女優』だよ。恵まれた環境で生きてるからって調子乗んなよ。命をなんだと思ってるんだよ。最っ低だな。ウザいから、二度とそんなこと言うな」


 我慢できなかった僕がそう吐き捨てると、彼女は無表情になって瞬きをした。憑き物が落ちたみたいに、ぞっとするような「無」になった。彼女が何を思っているのか、僕にはわからない。


「また、明日」


 明日も彼女に会わなくてはいけないという現実を自分に言い聞かせるように、声を絞り出す。彼女はうんともすんとも言わなかった。


 僕はそのまま帰宅した。ベッドに入った時間は早く、睡眠時間は長かったのに、翌朝の寝覚めは悪かった。





 修学旅行一日目。これは……神さまの嫌がらせなのか何なのか。


 あの日。座席決めのグーチョキパーでわかれましょうで、なぜ僕はグーを出してしまったのだろう。新幹線で僕の隣の席に座っていたのは、櫻野さんだった。


 集合場所の駅で会ったときも電車に乗っていたときも会話をしなかった僕らは、無言タイムの最長記録を更新中だ。彼女は現在眠っているので、記録はさらに伸びるだろう。


「なぁな、白鷺?」

「なんだ」


 前の席で鹿島と一緒に座っている馬場が、僕に話しかけてきた。


 席と席との隙間から目をのぞかせて、「あ、はなみちゃん寝てるんだ。英次郎と違って寝顔かわいー」なんて言う。そうだ、彼女が可愛いのは顔だけだ。鹿島の寝顔が可愛くないのも当然だ。


「あんさ、白鷺。お前、はなみちゃんのことどう思ってんの?」

「人気女優で、クラスメイト」

「なんだそれ。いや、間違ってはないけどさ。けっこう仲良いじゃん?」

「いいや、まったく? 転校なんて何かのドッキリ企画だったら良いのにと今でも思うよ。さっさといなくなればいいのに。卒業式が待ち遠しい」

「なに、マジで喧嘩してんの」

「もともと仲良くなるべき人間じゃなかったんだ。価値観が合わない」

「ふーん。ま、そんなもんか。性別も違う、こんな可愛い子と同じ考えなんてできないか」


 馬場の言うとおり、彼女の考えなんてわかりやしない。わかりたくもない。


「僕と彼女」というテーマから話を逸らそうと、僕は「彼女個人」についての疑問を聞くことにした。


 話の流れとして不自然ではないだろう。彼女に興味があるわけでなく、自分のことを語らないでやり過ごすための質問だ。


「それはそうと、ついでに馬場に聞きたいことがあるんだけど」

「ん、なに?」

「このひとって、なんで芸能活動休止してたの」


 櫻野さんは、この修学旅行メンバーとは特に親しくしている。僕はインターネットで調べただけで、本人に聞いたことはないが、はなみんファンのこいつなら何か聞いているかもしれない。そう思って、振った話。


 馬場は呆れ顔をした。


「お前『このひと』って、他人行儀すぎるだろ。はなみちゃん本人に聞きゃいいのに。ま、いいけどさ。――曰く、去年はリフレッシュ期間だって。本物の青春を味わって演技の参考にするため、とか。前の学校の運動会では仮装リレーとかあって、けっこう面白かったらしい」


 リフレッシュ期間、充電期間。それは僕も調べた内容から知っている。ん? と引っかかったのは、運動会のことだった。彼女にとって、運動会は「久しぶり」のはずだったが。


「……運動会、参加したんだって? 去年の、前の学校の?」

「そりゃそうだろ。リアルの青春体験のために学校行ってたのに、行事に参加しなくてどうすんの。ちなみに転校してきたのも、役作りのためだって」

「役作り?」

「詳しくは言えないらしいけど、なんか今度の映画で演じる役が、病気になってから田舎に療養に行く役なんだって。俺らのところって田舎とまでは言わないけど、そこそこ畑とか森とか自然はあるし、東京にも電車でわりとすぐ行けるじゃん? 田舎体験もできて、仕事にも行きやすいとこってことらしいよ。仕事熱心でスゲーよな」

「へえ……。そうなんだ。全然知らなかった」


 ――どっちに嘘ついてるんだよ。


 彼女が嘘つきなのは前からわかっていたが、ここまで真っ赤だとは思っていなかった。


 僕をからかって、病弱なふりをして遊んでいるだけなのか。それとも何か事情があって、他のやつらには病気のことを隠しているのか。


 あざとい演技で人の心を惑わすだけでは飽き足らず、あんな可愛い顔して嘘を吐くなんて、まるで小悪魔だ。


 新幹線が目的地に近づいてくると、寝ている人を起こしてあげてくださいとの伝言があった。僕は櫻野さんに声を掛けるのが嫌だったので、後ろの席に座っていた宮本に頼むことにした。


 宮本に起こされてぼんやりとしていた櫻野さんも、僕に話しかけてくることはなかった。

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