7 誤魔化シ:Liar's Hair
三年生が関わる競技は残すところ、全員参加の大縄跳びと、代表競技の学年対抗リレーのみ。
大縄の集合前にトイレに行った僕は、出口の前で櫻野さんに遭遇した。
「あっ」
「……あ、白鷺くん。『棒倒さん』おつかれー」
「……うん」
気のせいかもしれないけど……櫻野さんの目元が、赤くなっているように見えた。泣いたのだろうか。本当にそうなら、いったいなぜ? 僕は彼女の顔をじっと見てしまう。
「じろじろ見ちゃって、どうしたの?」
「……運動会の日でも、君の髪型は崩れないんだなと」
わざわざ「泣いたのか?」なんて聞くのもどうかと思い、誤魔化した。なぜか彼女の目が泳ぐ。腕に掛けた大きめの巾着袋を、彼女はゆらゆらと揺らした。
「あー……いま、結び直してたの。うん」
「そうなんだ」
「あと、さっき、砂ぼこりがぶわぁってなってね。目が赤いのは、そのせいだよ。洗ったの」
「うん、そっか」
「うん……。わたしさ、学校の運動会に参加するの久しぶりで、すごくはしゃいじゃった。みんなと参加できて、嬉しいなぁ」
ポニーテールにした髪を片手でいじりながら、彼女は言う。売れっ子の芸能人である彼女は、ここ数年は学校行事に参加することも難しかったのかもしれない。華々しい活躍の裏で、寂しい思いもたくさんしてきたのかな、と思った。
芸能活動の休止中はどうしていたのかは、ここでは考えないことにする。もしもその期間にも実は学校に行けていなかったのだとしたら、僕は嫌な想像をしてしまうからだ。
「今年は、参加できて良かったね」
「うん! ほんとうに……良かった」
嬉しそうな声色で言いながら、その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。それがどんな想いの結晶なのか、僕は理解しようとしなかった。ただぼんやりと困惑した。
見目麗しい女の子でもなく、有名な芸能人でもなく、学校行事に参加できなかった経験もない僕には、彼女の涙の理由を知れない。きっと言葉で教えてもらっても、共感することはできない。病気のせいだなんて可能性は、無視したい。
「白鷺くん、今日なんか変だよ? そんなに見つめられたら、恥ずかしくなっちゃうじゃない。今度はどうしたの? わたし、なんか変かな?」
彼女が強がっていること、何かを隠そうとしていること。それくらいにしか気づかないでいる。
僕は結局、サクラノハナミという人間に対して、鈍感だった。意図的にも、無自覚にも。ずっと。
「いや、なんでもない。髪の毛ツヤツヤだなーって」
「なによ、さっきから髪のことばっかり。……お手入れ、頑張ってるんだ」
「そうか」
「大縄跳び、迷惑かけないように頑張るね」
彼女は胸のあたりを押さえ、長い睫毛を伏せて言った。その姿があまりにも弱々しくて儚くて、僕は心臓を鷲掴みにされたような気になった。
彼女を安心させたい、と思った。
「仮に足が引っかかっても、誰も迷惑なんて思わないよ。落ち着いて行こう」
「……うん」
彼女はうつむいたまま、返事した。ひとりにしてあげたほうが良いのかもしれないと思い、僕は「じゃあね」と言ってその場から去る。微かな泣き声が聞こえたのは、気のせいだと思いたい。
「黄緑組、お疲れさまでしたーっ!!」
「うぇーい!」
「準優勝おめでとうー!」
「いぇーい!!」
運動会終了後、教室にて。櫻野さんは、いやにハイテンションだった。
大縄跳びの結果は、二組は男女ともに二位で終わった。みんな頑張ったと思う。
最終結果は、三年生の優勝は三組。準優勝が僕ら二組となった。ちなみに一組は、二組と僅差で三位である。めちゃくちゃ悔しがっていたので、僕らは余計に派手に喜んであげた。
「佐藤先生から、差し入れです。先生、ありがとうございます! ジュースの種類はオレンジと、リンゴと、カフェオレと――」
希望が被ったところは櫻野さんが王様じゃんけんをして、僕がみんなにジュースを配った。「わたしたちは余ったのでいいよね」ってことになり、僕と櫻野さんは、ふたり揃ってカフェオレになった。
「先生ね、のど飴もくれたの。みんな応援も頑張ってたからって。あとで一緒に配ろうね」
「櫻野さんは疲れてるだろ。僕ひとりで配るよ」
「そんな寂しいこと言わないでよ」
カフェオレをストローで吸いながら、櫻野さんはいじけたように言う。大縄跳びのときからは元気そうな姿に戻っていたものの、僕は彼女が心配だった。
体育委員のふたりとその連れが、彼女に話しかけてくる。
「おつかれー、はなみん。あれさ、『はなきえ』の応援シーンの再現? クラスカラーの黄緑ポンポン」
「あっ、うん。そうだよー。最後の運動会だからさ、もう一回やりたくて」
「めっちゃモチベあがったよ。ありがとう」
「応援したのはわたしだけじゃないから、女子みんなへのお礼として受け取るね」
「おっしゃ。じゃ――女子全員ありがとぉー! おかげで男子も三位とれましたぁ! マジ感謝!!」
彼女が他のやつらと楽しそうに話しはじめたので、空気と化した僕は、その輪からそっと離脱した。
それにしても――最後の運動会、か。笑顔で話す彼女を見ながら、妙な言葉選びだな、と思った。
「この学校で行う最後の」だとしても、転校生である彼女にとっては「初めて」でもあるのだから、より相応しいのは「最初で最後の」とか「このメンバーとできる唯一の」だと思う。あの言い方じゃまるで……いや、やめておこう。
きっと、僕が気にしすぎなだけだろうから。細かい意味の違いや行間について気にしてしまうのは、ただの物書きの端くれの
みんなで教室でワイワイやって、後片付けまで協力して行なって、僕はぐったりと疲れ果てて帰宅した。
眠りたいと駄々をこねる体に鞭打ち、今日の思い出を、新鮮なうちにワードに打ち込む。書きたいことがたくさんあった。
充実して楽しい一日だった。昼間の青空みたいに爽やかな気分だ。一点の曇りを残したのは、櫻野さんの赤い目元のこと。
あのときは考えつかなかったが、どこかで意地悪でも言われたのかもしれない。例えば一組のやつとかに。もっと優しい言葉を掛けてあげれば良かった。次に会ったときには、それとなく聞いてみようかな。
日曜日と代休の月曜日は、小説を書いていたらあっという間に終わった。
運動会の次の週、櫻野さんは一日も学校に来なかった。
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