5 言い訳:軽度な火傷の予防策

 運動会当日の朝。とてもいい天気で、半袖の体操服と短パン姿でも、僕はちょっと暑いくらい。しかし校門のところで鉢合わせた櫻野さんは、なんと上下のジャージを着ていた。


 彼女はにこにこと僕に駆け寄り、当たり前のように隣を歩いてくる。僕は早歩きに切り替えた。


「おはよ、白鷺くん。朝から君に会えて嬉しいよ」

「おはよう、櫻野さん。見ているだけで暑くなるような恰好をしているけど、どうしたの? 寒がりだっけ?」

「うーんとね、うまく早起きできなくて、日焼け止め塗る時間なかったんだ。顔はちゃんとしてきたけどね。だから登校中は長ジャージ着て、残りはこっちで塗ることにしたの」


 体育委員やクラス委員、生徒会本部役員といった一部の生徒は朝から仕事があるので、他の生徒よりも集合時間が数十分はやい。


 こういうとき、深く考えもせずに委員になったやつなら愚痴をこぼすのも当然なのに、彼女はそういったことをまったく言わなかった。汚い言葉を使ったら自らも醜くなるから、という信条でもあるのかと思う。


「やっぱり芸能人ともなると、日焼けは厳禁なんだ?」

「そうそう、美白と美肌が大事なの。スキンケアには、けっこう気を遣ってるんだぁ」


 美白と美肌、か。彼女の頬を見てみる。たしかに色白で、キメが細かく艶々としていた。言われるまでもなく綺麗な肌だとは思っていたが、改めて見ると本当の本当に美肌だ。


 スキンケアにどのくらいお金をかけているのだろう、と僕は野暮なことを考える。


「なぁにじっと見てるの? もしかして惚れた? ごめんねー、わたしってば可愛くて」

「まさか。君の向こう側にあるグラウンドの状態について考えていただけだ。いつでも自分が見られていると思うなんて、自意識過剰だよ」


 ああ、しくじった。と内心悔やむ。こんなに可愛い彼女なら、いくら気にしても自意識過剰ということはない。ワードチョイスを明らかにミスった。


「そうかー、自意識過剰か。わたし、恥かいちゃったな。じゃ、左右を逆にしてあげます。そうしたらグラウンドがよく見えるでしょうからね! はいどうぞ!」


 彼女は怒ったような口調で言って、僕と立ち位置を交代させた。たぶん本気の怒りではなくて、例のごとく構ってほしいだけだと思う。彼女の顔は、プイッとあちらを向いていた。


 そういうことじゃないんだ、と僕は口を開こうとして、


「――……」


 なぜか……思いを声に乗せる前に、止まった。彼女に伝える気を失った。


 ここで再び彼女に構えば、僕の何かが負ける気がした。なんの戦いなのかもわからないし、負けたときに不利益があるのかもわからないが、彼女の思惑に乗るのは嫌だった。


 彼女がこちらを向いてくれないので仕方なく、グラウンドから上がる砂ぼこりを眺める。本当は土の状態になんて興味ない。


 見ていたのは彼女のことだけなのに、それを知られるのが怖かった。思ってもないこと言っちゃった、って。こっち向いて、なんて。言えそうになかった。


 惚れたなんてバカらしい。特別な思いなんて、芽生えていない。勘違いすんな。


 僕らはそのまま無言で歩いて、三年二組の応援席へと到着した。




「…………」

「…………」


 無言タイムに突入してから、およそ十分後。三年二組の応援席には、僕らふたりしかいなかった。たいへん気まずい。


 さっき会った体育委員のふたりとはちょっと話したけれど、櫻野さんとは話していない。が、あと数分でクラス委員も集合する時間なので、そろそろどちらかが声を掛けなくてはならないだろう。


 たぶんだけど、彼女は僕から来るのを待っていた。話しかけてよオーラがビシビシと伝わってくるから、よりいっそう話しかけるのが嫌になる。こういうの、天邪鬼っていうんだっけ。


「はなみん先輩、めっちゃ美脚だな」

「腕ほっそ。てか可愛すぎ」

「声かける? かける?」


 ……というか、そんなことより。通り過ぎていく他クラスや他学年のやつらの声がめちゃくちゃウザい。


 つい三十秒ほど前のこと、櫻野さんは長ジャージを脱ぎはじめた。突然だったので、正直ぎょっとした。


 今の櫻野さんは、半袖の体操服と短パン姿で、日焼け止めクリームを塗っている。すらりとした腕や脚が目に眩しい。


「あー、やっぱりめっちゃ可愛い」

「太ももに日焼け止め塗るのとか、考えただけでちょっとエロくね? はやく見てぇ」

「普通に、白い液体塗ってるだけでヤバい。妄想はかどる」


 変な目で見んなよ。全員くたばれ。てか黙れ。


 何かにどうしようもなくムカついた僕は、自分のリュックから上のジャージを引っつかんで、櫻野さんの席へと向かった。彼女の目の前に立ち、自分のジャージをめいいっぱいに広げる。


「うん? どうしたの、白鷺くん」


 彼女は膝に日焼け止めを塗りながら、きょとんとこちらを見た。僕はジャージの襟の上から答える。


「日陰を作ってあげてるんだよ。見てわからない? 太陽の下じゃなくてさ、トイレとかで塗ったほうがいいと思うけど。大事なんだろ、美白と美肌。簡単に晒すなよ」


 日陰作りというより、主な目的は目隠しだが。ブーイングが聞こえた気がしたけど、あんなやつらの下心を尊重してやる義理はない。さっさと去れ。


「……わたしのために、してくれてるの?」

「ああ、そうだよ。さっさと塗って集合場所に行くよ。あと四分しかない」


 ひとりで彼女の姿を堪能するのもいやらしいと思い、僕はそっぽを向いた。彼女が日焼け止めを手に出して肌に塗っていく微かな水っぽい音を耳に入れつつ、彼女の爽やかな声も聞く。


「うん、ありがとう。さっきは、からかってごめんね。君がわたしに惚れてても、そうじゃなくても、あんな言い方は嫌だよね」

「……僕こそ、自意識過剰って言ってごめん。別に惚れてないけどな」

「うん、わかってるよ。……日焼け止め、塗れた。もういいよ。行こっか」


 彼女はすっと立ち上がり、いつもみたいに笑ってみせた。僕は頷いて、ジャージを片付けると、ふたりでクラス委員の集合場所を目指す。


「あ、そういえばさ。わたしね、さっきのメーカーの新しい日焼け止めのCMに出ることになったんだ」

「……なに、じゃあさっきのは宣伝のつもりだったとでも?」

「そういうわけじゃないけど。でも言われてみれば……もっとサービスシーン見せてれば、買ってくれるひとが増えたかな? この学校の数人だけでも」

「そんなことで売り上げは大して変わらないんだから、君は自分の魅力の安売りはしなくてよろしい。あと、僕から言うのも変だと思うけど、男子の目には気をつけろ」

「心配してくれてるの?」

「ああ。君が変な目で見られて、それを苦に不登校にでもなったりしたら困る。ひとりでやるのはけっこう大変なんだよ、クラス委員」


 昨年度の僕は、クラス委員の仕事をほとんどひとりでやっていた。女子の委員になった子が不登校だったからだ。


 当時は平気なつもりでいたが、櫻野さんと一緒に仕事するようになってから、あれはあれで酷かったなと自覚した。忙しいクラス委員には、やはり相方が必要なのだ。


「うふふふふふっ」


 何がおかしかったのか、彼女は照れたように笑い出す。ちょっとびっくりした。


 わけがわからないので、人の不幸話を楽しむ失礼なやつだということにしておく。彼女がそんなことで笑うはずないとは重々承知していたが、便宜上はそういうことで。


「ふふっ、わかった。できるだけ長く健康なからだでいられるように、頑張るね」

「僕が気にしていたのはメンタル面のことだけどね」

「じゃ、心身ともに、元気にいられるように頑張る」


 やけに張り切っているように見えた櫻野さんに、やる気をうつされた僕は他意なく言った。


「じゃあ健康目指して、僕も普段から運動しようかな」

「いいね。筋肉質になってくれたら、もっと好きになるよ」

「……」

 

 なんだその返事は。別に好きになってほしくて言ったわけじゃない。というか、もっとってなんだ。それなら今はなんなんだ。


 僕は反応に困って、結局また何も返せなくなった。しかし今度の無言タイムは、彼女によってあっさりと終わらせられる。


「あのね、筋肉をつけるには豆乳とね――」


 彼女はにこにこ笑って、オススメのプロテイン飲料について教えてくれた。僕は話を熱心に聞く。


 好きになるとか何とかは、余命宣告のことと同じく冗談だったのだろう。深い意味など、きっとない……はず。

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