一章

アオハル色の思い出、幕明

4 願望:お休み理由≠病気

 五月中旬。外に生えた桜の木には一枚の花びらもなくなり、青々とした葉が生い茂る。ときどき暑い、初夏のこと。


「白鷺くんっ、明日はいよいよ運動会本番だね。優勝目指して頑張ろうね!」


 まだクーラーの入らない教室は今日の午後もやや暑く、隣に立つ櫻野さんは紺色のセーラー服を腕まくりしていた。

 手首からの流れるような曲線と白い肌を晒し、握りこぶしをフリフリする。ポニーテールに結われた長い髪も、背後でふわふわ揺れていた。


 机上に置いたTシャツに寄せ書きコメントを書きながら、僕は彼女に返事する。


「この学校では、体育系に強いのは一、三組だと相場が決まっているんだよ櫻野さん。ちなみに一組はオールラウンダータイプだから、他の行事でも強いんだ。ともかく、僕ら黄緑組が表彰台に立つことはありえないね」


 油性ペンのキャップをしめて、黄緑色のTシャツを次の子に渡す。運動会当日、みんなのがんばろうコメントを書いたクラスカラーTシャツを担任の先生が着るのは、この学校の恒例行事だ。


 僕が書いたのはシンプルに『一致団結して、頑張ろう。』で、その上にあった彼女のは『みんな仲よく協力してがんばろうね!!』。あちらはハートやキラキラやニコニコのマークで飾られていて、彼女らしさが満載だった。


 手の空いた僕に彼女は詰め寄り、ちょっと怒ってますよという顔をする。自分の頬を軽く膨らませ、指先で僕の頬をツンと突いた。あざとい。


「まったく、君は面白くないね白鷺くん。しかも、それってジンクスでしょ。クラス委員だっていうのに、そんな弱気でいいのです?」

「運動会でみんなをまとめるのは、体育委員の仕事だろ。クラス委員はその補助だ」

「そ! れ! で! も! 君が諦めちゃダメです。はい、えいえいおー」

「エイエイオー」


 彼女に手を持ち上げられて、僕は覇気がない棒読みの声を出す。結局、やり直しを三度もさせられた。とてもダルい。


「はい、よくできました」

「君に言われるまでもなく、僕はよくできる子です」


 冷たく返し、彼女の手の甲にそっと触れる。承知したと言わんばかりに、彼女は僕の腕をぱっと離した。


 委員会の前日準備は授業時間内に終わったし、寄せ書きも終えた。用事はすべて済んでいる。櫻野さんと話したそうにする他の子の姿が見えたので、僕はもう帰ろうかと学校指定のリュックを背負った。


 机に忘れ物がないか再確認したあと、最後に彼女に声を掛ける。別れの挨拶をせずに帰ると翌日以降にふてくされて面倒なので、機嫌を取ってやるだけのことだ。


「ああ、そうだ。櫻野さん、からだは大丈夫? 明日は走れるの?」


 本人が言ったとおり、彼女は確かに学校を「いっぱい休んじゃう」ひとだった。体育の授業を見学することも多く、さっきも先生と何か話していた。


 病気や余命云々の詳しいことはわからないが、からだが丈夫でないというのは本当らしい。


 一応カミングアウトらしいものをされた身なので、優しい僕は、たまに心配の言葉を掛けてあげている。

 と、彼女はドヤ顔になった。幸か不幸か、まったく重病人には見えなかった。


「最近の健康管理はバッチリしてるから、明日はちゃんと走れるし跳べるはずだよ! 全部がんばる!」

「そうか、いつも健康でいてくれるとありがたいんだけどね。じゃ、また明日」

「うん、また明日ね。白鷺くん」


 僕は数回だけ手を振って、教室をあとにした。彼女に触られた頬を一度撫で、ひとりで階段をおりていく。


 あんなに元気そうなんだ。余命宣告なんて嘘だろう。病気は本当だとしても、たぶん小児ぜんそくとかそういうもの。病名までは教えてくれない彼女だけど、きっといつか治るもの。だから彼女はまだ死なない。


 帰宅して着替えを終えると、いつもどおりにパソコンを立ち上げた。日記をつけること、小説を書くこと。これらは僕の趣味であり習慣だ。


 ワードを開き、今日の学校での出来事や感想を、日記兼ネタ帳に打ち込む。些細なことまで記しておけば、いつかの創作活動に役立つだろうという思いで、毎日こうして書き残している。


 櫻野さんは、ここによく登場した。隣の席で、同じ委員会で、しょっちゅう絡んでくるのだから当然だ。


 彼女が転入してきてから、パソコンと向き合う時間は増えている。日記に書きたいことも多いし、小説執筆にも前より夢中になってしまうのだ。


 今日の学校生活に関する日記を書き終えれば、次は小説執筆の時間。何か面白いネタはないかと、ニュースサイトを流し見する。芸能ニュースにあったタイトルに、手が止まった。


【「はなきえ」女優・桜野はなみ 芸能界復帰! ファンからは歓喜の声】


 クリックすると、雑誌の表紙画像がトップに現れる。若い女性をターゲットにしたファッション誌で、被写体はサーモンピンクの可愛らしい洋服を着た「桜野はなみ」。


 学校で週に三、四日会う女の子の別の姿が、そこにはあった。クラスの誰かや僕に向ける笑みでなく、全人類に見ることを許す笑み。惜しげなく披露される愛らしさ。


 鼓動の音が速くなる。芸能人だってことは知っていたのに、こういう画像を見ると、僕は……彼女が別世界に閉じ込められてしまったように思えた。この四角い枠の中は、僕が住むのとは違う世界。


 本文をサーッと読み進め、あっという間にコメント欄にやってくる。「復帰おめでとう!」「充電期間だったんだね」「さすがの可愛さ」「本当に病気じゃなくてよかった」「これからもいっぱい活躍してください!」などなどの言葉があった。


 これも前にインターネットで調べたときに知ったことのひとつだが、彼女――桜野はなみは、芸能活動を休止していた。何の知らせもなく、中学一年の冬から、突然に姿を消したのだ。


 僕らの学校に彼女が現れたのは、復帰のアナウンスがされる前のこと。始業式の日、一年以上消息不明だった有名女優の登場に、生徒は大いに湧き立った。テンションぶち上がりだった。彼女を彼女と認識できなかった僕は、ただぽかんとしていたが。


 ニュースサイトを閉じて、僕は小説のファイルを開く。昨日書いたぶんを何行か読み直してから、続きを書く。彼女の顔が脳裏にちらついた。


 休業理由は、充電期間。そう、本当にただそれだけのことならいい。あの日の言葉が頭に響く。病気、余命。鬱陶しくて仕方ないモヤモヤを晴らすべく、キッチンに水を飲みにいく。


 明日の運動会も、再来月の修学旅行も、きっと良い経験になる。小説を書くのに役立つはずだ。彼女にお小言を言われたからではないけれど、より価値のある経験にするため、全力で楽しもうと思う。僕らはもう三年生なのだから、彼女と過ごせる学校生活は今年しかない。


 僕の想像する未来には、しっかりと彼女がいた。彼女はいつも笑っていた。

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