2 詮索中:氵以外の共通点
公立中学の校舎の廊下に、若き有名女優の影が伸びる。チェック柄のプリーツスカートを揺らし、彼女はスキップするみたいに歩いた。
「憧れてたんだ、クラス委員」
ふへへへっとはにかむ彼女。あまりにも嬉しそうな様子に、僕は小言を飲み込んだ。
出会いから三日目の放課後、僕らは初めてふたりきりになっていた。
「わたしってば、すごいと思わない? 誰にも邪魔されずに、願いをふたつも叶えちゃった。クラス委員にもなれたし、いつもすぐ帰っちゃう白鷺くんのことも捕まえたの。ね、すごくない!?」
「そうだね、すごいね」
「でしょー? もっと褒めてくれていいのよ。って、君はそんなにチヤホヤしてくれないか。わたしのファンじゃないんだもんね」
「そうだね」
「『はなきえ』も見たことないって本当?」
「ああ。君が出演した映画は一本も見たことがない。まったく知らないわけじゃないけど、顔を見ただけじゃピンと来なかった」
「そっかぁ、わたしもまだまだね。桜野はなみ、隣の席の男の子からの好感度はゼロの模様」
「訂正、マイナスでした」
「え、嘘。なんでー?! もしかして可愛すぎっ、た!?」
ルンルンだった足取りを乱し、危うく転びそうになる。片方の上靴が脱げて数メートル向こうに飛んでいく。
あちゃー、やらかした。という顔をして、片足立ちの彼女はプルプルしだした。普通に生きているだけでも、
「まったく、何をやってるの。ちょっと待ってて」
僕は上靴を拾いに行き、プルプルの足元にそっと置く。彼女は「へへ、ありがとう」としおらしく言った。
「主なマイナス理由は、そのうるささだよ。もっとお淑やかだと嬉しいな」
「じゃ、君にどうしても好きになってほしいときは、お淑やかにする。たくさんおしゃべりしたいから、いつもは無理よ」
「そう、そりゃ残念だ。とにかく今度は普通に歩いてね。危ないから」
「はぁい」
彼女は素直に返事して、歩みを再開させる。僕も一緒に歩いていく。
数時間前、学活の授業にて。一年生のときから惰性でクラス委員を続けていた僕は、今年もクラス委員になった。
クラスメイトからの「どうせ今年もやるでしょ?」という信頼もあり、先生からの「やってくれると嬉しいな」という期待もあり。ちなみにいずれも無言の圧力である。
女子のクラス委員は授業中に立候補者がいなかったので、「やってもいいよって人がいたら、あとで先生に言いにきてくださいね」方式で決めることになった。
それが大人気女優の仕掛けた罠だったとは、クラスメイトはいざ知らず。
「学級委員とか、生徒会とか。昔っから、やりたいなーって思ってて。でも小学校のときは撮影で休んでばっかりだったから、そういうの全然できなかったの」
スキップもどきをやめた彼女は、今度は数歩ごとにターンするようになった。やわらかそうな太ももがチラチラと見え隠れする。どうやら「普通に」の意味を理解できなかったらしい。
「わたしが先にクラス委員になったら、きっと男子の委員を決めるときに荒れたでしょ? それが嫌だったからね、先生に根回ししておいたの。どうせ他にやりたいって子もいないだろうと思ってたし、うまくいってよかった! わたしって天才!」
「うん、そうだね。ここ、階段おりるよ。気をつけて。あと、いい加減クルクルするのやめたらどうかな」
「あ。スカートの中身、見えちゃった? やだ恥ずかしい……」
「大丈夫、なんにも見えてない。勘違いすんな」
今日から一年間、この元気すぎる女の子とともに、僕はクラス委員の仕事をしていく。雑用を任されることが多い役職ゆえ、一緒に過ごす時間は必然的に長くなる。
自分とはあまりにも違う人間と関わり続けなければならない現実に、やや気がめいった。
いつの間にこんなにキラキラした女の子になったのか、彼女の成長と活躍をリアルタイムで追えなかった僕にはわからない。画面の向こうで見つけた九年前より、今の彼女は遠かった。
「わたしとふたりきりだっていうのに、あんまり嬉しそうじゃないね。なんで? あ、ファンじゃないからか」
「そうだよ。熱狂的なファンに逆恨みされて殺されたらどうしようって怯えてる」
「さすがにその心配はないでしょー。君がみんなにいじめられないように、わたしが大事にしてあげる。わたしの大事なひとなら、誰も手出しはしないでしょ?」
「それはどうかな。僕は性善説を信じてない」
「白鷺くんってクールなのね。仲良くなるの大変そう。頑張らなきゃな」
「いいよ、仲良くならなくて」
「隣の席、同じ委員会、おまけに修学旅行の班も一緒。チャンスはいっぱいあるね。やった! あのね、修学旅行ではね、クラスのみんなと写真を撮るのがわたしの目標なんだぁ。もちろん集合写真のことじゃなくて、自分のカメラで撮るやつ。小学校の修学旅行は仕事で行けなかったから、すっごく楽しみ」
「へえ、そう。ようやく図書室についたよ」
「あ、ほんとだ。失礼しまーす」
僕はドアを開け、彼女を先に入れてやる。彼女は律儀に「ありがと!」と言った。
まだ午前授業の期間だからか、開館時間の短い図書室にいる生徒は少なかった。すぐそばの席について、クラス名簿と役職メモ、清書用の紙と筆箱を出す。さきほど決まった委員会と係の一覧表を作るよう、担任の先生から頼まれていた。
図書室の利用者らしく、僕らは小さな小さな声で会話する。
「女子の名前はわたしが書いて、男子の名前は白鷺くんでいい?」
「ああ、いいよ。お先どうぞ」
「じゃ、書きます!」
シャーペンを持った彼女は張り切って、一番上のクラス委員の欄に自分の名前を書いた――ようだった。
「あれ?」
僕は思わず呟く。「どうしたの?」と彼女は言いながら、続きの生活委員や学習委員の子の名前を正しく書いていった。
「君の名前、黒板に書いたのと違う。名簿とも」
「ああ、そのこと? そうだね。読みは同じだけど、本名はこっちの漢字だよ。あれは芸名。通称名としても使ってる」
自己紹介のとき、彼女は黒板に「桜野はなみ」と書いた。彼女のことを調べたときに、宣材写真や「女優」の肩書とともに表示されたのも、この字の名前だった。
しかし本名は、実はちょっと違うらしい。「桜」の字はもっと難しく、「はなみ」にも漢字がついている。
彼女の綴った名前は、「櫻野葉波」。なんというか――
「夏っぽい漢字だね」
「わたし、八月生まれなの。白鷺くんもさ、いい名前だよね」
「そうかな」
「うん。
下の名前で突然呼ばれて、僕は不覚にもドキッとした。桜野さん――いや、櫻野さんは僕を見て、いたずらっぽく笑う。それにしても、よく笑うひとだった。
「みんな、素敵な名前だよね。うん。わたしの名前、覚えてね。サクラノハナミ。はい復唱!」
「サクラノ、ハナミ」
「はー、は緑の葉っぱと葉月の葉。なみー、は青い海の波。わたしのパパとママの出会いの場所は、素敵な海辺だったのです。お近づきの印として、君にだけ本名を教えてあげます。この名前は、学校では先生と君しか知りません。あ、婚姻届に書くのはこっちの名前ね。間違えないでね」
「ああ。別にお近づきじゃないし、婚姻届に書くこともないだろうけど覚えておく」
「ん、ありがと。女子の下書き終わったよ。男子の下書き、お願いね」
「承った」
「あのさ、ペン書きのときはさ」
「うん、なに?」
「わたしが男子の名前なぞって、白鷺くんが女子の名前なぞるのでもいい?」
ああ、と僕が答えると、彼女は小さくガッツポーズをした。いったい何がそんなに嬉しいのか。
シャーペンでの下書きを終えると見直しをして、彼女がペン書き作業に入っていく。
彼女が一番になぞった名前は、僕が書いた「白鷺新汰」。彼女のあとに僕が一番になぞった名前は、彼女が書いた「櫻野葉波」。
彼女の手の通った道と、僕の手の通った道が重なる。筆跡が混ざる。漢字ドリルの練習と似たことだ。
いやらしくもなく、恥ずかしくもない行為のはずなのに、なぜか僕の胸はむず痒くなった。
一番下の名前までなぞると、彼女は「終わっちゃったね」と寂しそうに呟く。窓から差す昼下がりの光が、彼女を淡く照らした。
完成した表を職員室に提出すると、僕らは途中まで一緒に帰ることになった。
「桜、もう葉っぱばっかりだね」
「うん、そうだね」
「わたし、来年の桜も見られるかなぁ」
「さあ? 健康に生きていて、引きこもりでなければ、見られるんじゃないか」
「そうだねぇ。そうだといいねぇ」
彼女は妙にしんみりとした口調で言う。昔の人がよく和歌で詠んだように、彼女も散っていく桜を恋しがっているのかもしれない。僕は彼女の奥に咲く葉桜を改めて眺めた。
道の脇に生えている桜の木には、薄紅色の花の姿はもうわずかにしか見られない。若々しい黄緑色の葉は、色褪せた花を隠すようにぐんぐんと成長している。木漏れ日は幻想的な煌めきの筋を空中に残し、静かな影を地面に落としていた。
あと数日ですべての花が消えてしまうと思うと、たしかに物悲しくなるな、と。今度は彼女に共感できたと判断して満足した僕は、正面を向いた。あとは、ただ無言で隣り合って、終わりが来るまで歩くだけ。
自然な流れで、僕らは校門を通り抜けたところで別れようとする。
「じゃ、これで」
「うん、またね」
方向転換しようと、僕の白スニーカーが動き出したとき、
「……――あのさっ」
弾けるような彼女の声が、僕を引きとめた。スニーカーはぴたりと止まる。
「なんだい、櫻野さん」
「わたしの本当の名前を見破っちゃった君に、ひとつ秘密を教えてあげよう」
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