映画より綺麗な君の死化粧

幽八花あかね

序章

二度目の恋と死別の予告

1 恋と病の共通点:自覚の遅さ

 隣の席の女の子がまだ生きていたことに、僕は内心びっくりした。


 よく晴れた四月の朝、彼女は「おはよ、白鷺しらさぎくん」と僕に声を掛ける。


 すでに病魔に侵されていたとは誰にも思わせないだろう顔で、目の前の少女は笑っていた。


「お、おはよう」


 返す声は裏返り、たった四音にさざなみが立つ。反射的に掴んだしおりひもは、指の間をするりと逃げた。


「おはよう、はなみん!」「今日も可愛いね」「ねえねえ、昨日さ」と瞬く間にたくさんの生徒が彼女の元に押し寄せ、僕はまたもや潰されかける。


 読んでいた文庫本をしっかりと掴み、やつらの間を通り抜け、教室の角とロッカーとの隙間に滑り込んだ。床の上に腰を下ろし、人ごみに埋もれた自席と彼女を見やる。


 ただひとりブレザーの制服を着た彼女は、もうこちらに視線を向けることはない。楽しそうなクラスメイトの声を耳に入れつつ、僕は本を読み進める。


 あるページをめくるのと同時に、ふと二秒だけ顔を上げ、彼女を見た。ここから視界に入るのは、彼女の後ろ姿の一部だけ。


 明るい茶色のジャケットを羽織った背筋は真っ直ぐに伸び、蛍光灯に照らされた長い髪は健康そうに艶めいていた。


 普段は病弱少女には見えないのだな。と仄暗い思いを抱え、僕は再び視線を落とす。


 手元のサナトリウム文学に登場する少女は、つい数ページ前に結核にかかっていることが判明し、さっそく死亡フラグを立て続けていた。


 本についた裏表紙のあらすじや帯から、少女が死ぬことはすでに明かされている。あのテレビドラマも、番宣や第一話からそうだった。


 活字の海に生きる十代の少女を追う最中、僕の頭の片隅は、昔見た画面の中の幼女を想う。


 桜の模様のワンピース。公園を駆ける小さな足。ふわふわの猫っ毛。パパママと繋いだもみじのような手。ふっくらとした頬。お花みたいな満面の笑み。


 彼女に釘付けにされた五歳の僕の隣には、同じ目をした母がいた。母と一緒に、ドラマの中の難病少女を見る。金曜の夜が好きになった。


 毎週毎週、夢中で彼女を追いかけた。最終回で、彼女が世界から消えるまで。


 僕はあれを見たのを最後に、他の映画やドラマをエンディングまで見られたためしがない。だから僕は、隣の席の女の子について、きっとクラスの誰よりも無知だった。


 昨日からクラスメイトになった転校生の名は、さくらはなみ。メディアから「余命わずか系女優」というあだ名をつけられ、世間でもそう呼ばれている。


 彼女の正体を求めてインターネットの海を軽く漁れば、動画はいくつも見つかった。彼女の死を仄めかし、時に涙を誘う、たった数十秒、数分間の予告映像。昨夜の僕は、それらをむさぼるように見た。


 CMやバラエティ番組で「桜野はなみ」を見かけたことはあったはずだが、あの難病少女役と同一人物だとは知らなかった。


 調べている途中に知り、一瞬、息の仕方を忘れた。それからあの最終回の予告を再生し、肝腎な場面がないことにホッとした。


 僕は、映画やドラマを見られない。


 現代日本で撮影された作品の場合、ストーリーの開始から十分ほどで吐き気やめまいを催す。症状が出ても無理に視聴し続けると、あとは吐くか倒れるか。少々厄介な体質だ。

 唯一の例外として、全編通して見たことがあるのは、彼女のデビュー作であるドラマだけ。


 映像作品を受け付けなくなって、早九年。娯楽には読書を特に好むようになり、やがて小説執筆も趣味にした。画面の中の物語に浸れないなら、文字に溺れるのも自然な流れだと思う。


 活字の病弱少女が喀血かっけつし、恋人が彼女に駆け寄った。紙の擦れる音をかき消すように、古びたスピーカーから始業のチャイムが鳴り出す。


 たくさんの咳をして苦しむふたりの少女の姿は、脳内からフェードアウトしていった。


 僕は本を閉じて立ち上がり、もう人のいない自席につく。彼女と目が合う。


「ごめんね、白鷺くん」謝る姿も綺麗だった。

「……別に」口先は誤魔化せても目は泳ぐ。


 朝の会のあとの休み時間。僕は再び教室の隅に引っ込んだ。抱えた本のページを一途にめくる。酸素を求める魚のごとく文字を欲した。


 サナトリウム文学の青年は、倒れた恋人の未来を憂う。僕の頭の中では、彼女らはまだ生きていた。


 ただ息をしている、それだけでいいはずだ。彼女の笑い声を遠くに聞けば、愚かな心はそのままいだ。始まる前に終止符を打った、つもりだった。



 目を閉じれば、今も鮮明に思い出す。


 ひとりだけ違うブレザーの制服。長い睫毛。艶やかな髪。血色の良い唇。綺麗な声。僕に見せる花の笑み。


 この僕の語彙力を根こそぎ奪ってバカにさせ、ありきたりな言葉で表すことしか許さない。そんなあの朝の衝撃を、死ぬまで忘れたくないと僕は願う。


『おはよ、白鷺くん』

『お、おはよう』


 あれは――彼女がこの世に実在し、生きていることを感じた瞬間だった。


 彼女のことを、人生で二度目に愛おしいと感じた瞬間だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る