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「おはよう。今日はちゃんと起きれたんだ。偉い偉い」


 次の日。起こされる前に台所に顔を出すと、仁美さんは昨日のことをおくびにも出さず、いつものニコニコとした朗らかな笑顔で挨拶してきた。


「まあ。そんな日もあるよ」


 わたしは欠伸を噛み殺しながら、ぶっきらぼうに返す。


 そもそも一睡もしていないのだから、早いも何も無い。


「どうしたの? 何か機嫌悪い?」


 わたしの様子から察したのか、仁美さんは心配そうに顔を覗き込んできた。どうしたの? はこっちの台詞。夜中の電話は何だったの? と口から出そうになり、バツが悪くなって「別に」と顔を逸した。


「そっか」


 振り返ってフライパンに向き直った仁美さんの背中を、わたしは睨みつける。


 変わらずニコニコしてるけど、何を考えているんだろう。素知らぬ顔をしながら、内心は男のことを考えているんだろうか。今もわたしを捨てる算段を立てているのかもしれない。


 心のなかで、嫌な想像が膨らんでいく。


 そんなはずない。わたしは仁美さんを愛してるもの。仁美さんだって、同じようにわたしを愛してくれているに違いない。


 ……そうだ。


 わたしはそっと仁美さんに近づいていく。


「どうしたの?」


「ううん。ちょっと、喉が渇いて」


 水切りラックのコップに手を伸ばしながら、タイミングを窺う。仁美さんが咄嗟に体を動かしても、危険じゃないタイミングを。


 ……ここだ。


 仁美さんがフライパンから離れたタイミングを見計らい、わたしは仁美さんの足をギュッと力いっぱい踏んづけた。


「ひぎっ……」


 仁美さんは短い悲鳴を上げ、痛みに顔を歪めた。反射的にしゃがんで、踏まれた足を擦っている。


「ご、ごめんなさいっ」


 わたしはぱっと足をどかして、すぐさま謝る。悪意なんて欠片もないように見せかけるため。謝りながら、仁美さんがどう出るか反応を待つ。


 ゆっくりと仁美さんが顔を上げた。


「だ、大丈夫だよ。寝起きだもんね。気にしないで。それより、彩香は大丈夫だった?」


 その顔は、少し引き攣ってはいるけど、いつも通りのニコニコ顔だった。予想とは違う表情にわたしの中の何かが、すうっと冷え切っていくのを感じる。


 それからも、わたしは度々同じように仁美さんを傷つけた。


 ある時は、料理を手伝っている途中。沸騰したお湯の入った手鍋を持って振り向き、仁美さんに熱湯をかけた。


 悲鳴を上げて飛び上がる仁美さん。熱湯のかかった手や足の先は見るからに痛々しく、赤く腫れていた。それなのに、


「彩香は火傷してない? 大丈夫? 火を扱ってる時は気をつけないとね」


 と、保冷剤で赤く腫れた場所を冷やしながら、ニコニコと濡れた床を拭いていた。


 またある時は、ふらついたふりをして、裁ちばさみで仁美さんの太腿を後ろから刺した。この時ばかりは太腿に鋏が食い込む感触に驚いて、少し刺しただけで手を引いてしまった。


 それでも、仁美さんは短い悲鳴を上げてから痛みに歯を食いしばり、太腿からは真っ赤な血が垂れていた。


「刃物は危ないから、気を付けてね。彩香が怪我しなくてよかった」


 と仁美さんは顔を引き攣らせながらも、なんとかニコニコ顔を保っていた。


 笑って優しい言葉で許してくれる度に、仁美さんに対するわたしの中の何かが冷え切って、砕け散っていく。


 わたしは仁美さんとの絆を試しているつもりだった。


 本当のお母さんなんて知らないけど、もし仁美さんが世で言うお母さんのようにわたしを愛してくれているのなら、危ないことをすると叱ってくれたはずだ。いっそ、げんこつの一つでも食らわしてほしかった。


 でも、違った。


 仁美さんは何をしても笑顔でわたしを許した。傷つけたのに、もしかしたら怖がらせたかもしれないのに、変わらず笑ってた。


 きっと、それはわたしなんてどうでもいいから。


 仁美さんはもうとっくにわたしを捨てて男と一緒になることを決めていて、その時まで出来るだけ波風を立たせずにやり過ごそうとしてるんだ。

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