冒涜的な表現のような何か


 10年少々前のことでしょうか。

 動画投稿サイトを発端に、『クトゥルフ神話』という存在の知名度が一気に上がりました。


 ざっくり説明すると、『クトゥルフ神話』とはアメリカの作家H.P.ラヴクラフトの作品を中心に据えた、ホラー小説群に共通するのことです。

 ここでは、コズミックホラーや宇宙的恐怖などと称される『宇宙から飛来した圧倒的な存在によって与えられる恐怖』が描かれることが多いです。

 

 この作品群ではしばしば『冒涜ぼうとく的な』という表現が用いられます。

 これはクトゥルフ神話の根幹というかコンセプトというか、キリスト教的な世界観における信仰……完全な唯一神による世界の創造、人間はその唯一神に万物の霊長として造られた存在である、など……を真正面からブン殴りに行くスタイルをとっており、このキリスト教的価値観を冒涜する超越的な存在や展開・表現が醍醐味だいごみであると言えます。


 しかしながら我々日本人は唯一神どころか神も仏もアリなうえ、仏教と神道をミックスして土着信仰をひとつまみ加えたような価値観の上に立っています。

 なのでイマイチこの『冒涜』という、クトゥルフ神話の魅力の根幹に触れることが難しくなってしまっているのです。

 かくいう私自身も、意味合いとしてはなんとなくの感覚で理解できていても、本当の意味で『冒涜』を享受できてはいなかったのではないかと思います。


 さて、ここからが本題なのですが。

 芸術やデザイン・建築などを学習すると、かなりの確率で触れることになる言葉があります。

 それは『神は細部に宿る』というもの。

 この言葉のルーツについては諸説ありますが、ミース・ファン・デル・ローエという有名な建築家とセットで語られることが多く、『細部にわたるが作品の本質を決める』というような意味合いで使われることが多い印象です。

 私は学生時代から何度もこの言葉に触れる機会があり、その影響で、どんな媒体の作品であっても『神』……こだわりを重要だと強く思っています。


 しかしながらその『神』を、信仰を冒涜する存在が現れました。

 生成AIです。

 人の手で造られた作品を学習……もとい、単純なデータとして読み込み、プログラムされたランダムなフィルターを通すことでを生み出すという触れ込みの彼らAIは、私を含むすべての作家にとって非常に『冒涜的な存在』であると言えるでしょう。


 AIにはこだわりがありません。

 生成AIユーザーが、たとえどれだけプロンプトで「これこれこういう条件に当てはまるものを生成しろ」と命令を下したとしても、それはこだわりとは言えないでしょう。

 なぜなら、ユーザーはどこまで行っても『条件を提示する』ことしかできない、ただのいちクライアントに過ぎないからです。

 少なくともアーティストを名乗るには値しない、私はそう強く感じています。

 

 カクヨムに投稿されている小説にはしばしば、画像生成AIによって出力された画像データが添付されていることがあります。

 彼らは、自分の行為がイラストレーターに対する冒涜だということを理解しているのでしょうか。

 もし商業デビューにこぎつけたとしても、彼らのことを『作家』だと思いたくはありません。


 私は今までも、そしてこれからも、自分の作品に対してこだわりを強く持ち続けたいと思います。

 願わくば、ひとりでも多くの『アーティスト』が私の意見に賛同してくださいますよう。

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