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「無意味だね」
先生はそう言った。僕が先生と呼んでいるだけで、正確には二歳上の文芸部の先輩だ。先輩は僕が手渡した詩とも小説ともつかない文章を返した。
「君は実際に人を殺したことがないだろ? 刃物で簡単に人が切れるか? 犯罪者が感情の一線を越えるきっかけはどこだ? 全ての描写にリアリティがない」
「憧れなんです」
「昔の恋人を殺すことが?」
僕は頷く。そうだ。僕は誰かと愛し合って、セックスして、裏切られて、殺したい。
「現実を生きるんだ。読者は。生きなければいけないんだ」
めずらしく強い口調だった。先生のワイシャツは、シワひとつない。ピシリと伸びた背に、薄闇に映えるシャープな顔。下唇が白い。寒いのだろうか。
「いくつも見てきた」
先生は苦々しく、部室のすみに積まれた埃まみれの本を睨む。
「アーティストってやつの傲慢を。やつらは永遠に夢の世界に生きてるからな。現実で人が死のうが関係ない。いつまでもそこで遊んでいやがる。俺は憎かったよ。憎かった。あいつらみたいになりたくて、絶対になれないから、あいつらとは違うアートを追求した。現実に即した、実のあるものをね」
先生の喉仏、鎖骨と鎖骨の間、そこを舐めて、歯形をつけること。先生の性器が僕の太ももに当たること。罵倒されながら犯されること。
「憎いよ。俺は。お前はたぶん一生夢の中で暮らしていける。今はまだだけど、このまま書いてたら、大学卒業後は人に致死性の夢を売る商売で儲けると思うよ」
窓が、電源を落としたディスプレイだ。
「先生は、夢がないんですか」
頭の中で妄想をして、その後に「先生」と声に出すと、悪いことをしているみたいだ。体が熱くなる。
「現実と地続きのもの以外、ないよ」
先生が、今日の作業を切り上げて、タブレットをしまい始める。
「君は気楽でいいね」
僕は無視して、質問する。
「先生は、犯罪者と話したことあります?」
「たぶんないね。君は?」
「僕もないです。じゃあ、ゲイと話したことはありますか?」
先生は一瞬手を止める。
「そうとわかって話したことは、ないな」
「僕もないです」
「なんだよ」
リュックを背負う。部室の電気を消す。廊下へ出る。蛍光灯のぼわっとした光が目立つ。誰かの明るい声が、女の幽霊の笑い声みたいに響く。
「あれは現実ですよ」
僕の声は幼く響く。先生の背中を声が素通りする。秋は寂しい。
「現実に生きています。夢を見る人は」
先生は早足になる。昇降口。先生は、普段から靴を履くのに時間がかかる。今日は、違った。つっかけて、かかとを踏んで、歩き出す。
「俺はその気になれば簡単に人ひとり殺せるんだって、思うことの何が悪いんですか? みんなVtuberに恋して、AVで抜いて、異世界転生ものでスッキリするじゃないですか」
先生はICカードをタッチし損ねた。ピピピとランプが点滅して、先生は舌打ちした。
「先生は、さっき致死性の夢って言いましたよね? 食ったもんは不味いし、吐くし、眠れないし、ODでやっと眠れるし、朝は死にたいし、僕らの現実なんて、とっくのとうに死んでるんですよ」
先生は、強がるように前へ、前へ、足を運ぶ。
「夢と現実の区別なんて、つけちゃいけないんです。あれが夢で、これが現実だなんて知ったら、分かったら、もう生きられないから。先生もそうですよ? 現実を追求したら、いつか死にたくなりますよ?」
先生は振り向いて、闇色の目をくっと僕に向けた。強張っていた頬は、徐々に沈んだ。喉の奥で必死に堪えた息の音が聞こえた。
「ごめんなさい。言いすぎました」
顔を隠してまた歩き出した先生の、短く刈った襟足。うつむき加減。
駅のホームには、ちらほら部活終わりの高校生がいて、スーツを着た社会人がスマホをいじっていた。夜の川底みたいな静けさが線路の向こうからやってきて、ここを占領しそうだった。
先生が、ふと立ち止まって、ぼんやり明かりを放つ自販機を指した。親指はぴんと伸びていた。
「橋河、奢ってやるよ」
微かに湿っていた。しかし、思ったよりも余裕のあるその声を聴いて、僕は驚いた。
「飲んだことないだろ? モンエナ」
体が熱くなった。
Fin.
夢の血だまりを踏んで @yrrurainy
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