夢の血だまりを踏んで

雨乃よるる

1

死ねるたかさのビルの一室で、床の血を踏んで、安いタバコはすぐに消してしまった。きみの喘ぎ声は、何度も繰り返される。


一軍にカスと吐かれて、カッターで目の下をぱっくりやったとき、僕よりひどい泣き面で手の甲をなでてくれた。ゆるしてね、ゆるしてね、なんできみがゆるされなきゃいけないの? あたしのせいだよ。だって、あたしがやればよかった。被害者の前で、ひいひい声を裏返しながらいったものだから、きみは相手の親にぱしんと一発頭をやられて、逆上して死ね死ね。僕らはそろって、ピアスを開けた奴らのどぎつい恋愛と暴力と便所飯しか印象のなかった高校を退場した。外の世界で2人、空の群青を吸ってモンエナを飲みながらやれるもんだと思ってた。知らないおじさんと大量に繋がってる君の別垢を見て、ごめんごめんごめんって思いながら黙ってた。二十を過ぎても、アルコールもタバコも買いに行く勇気がなくて、きみが冷蔵庫に入れたストゼロを一気に飲んで吐いた。セックスの次の日は君が鬱で口を利いてくれないこともわかってきて、訳がわからなかったけど、家賃は全部きみが払っていたから、アパートを出た。言い忘れてた。財布から8万抜いたのはごめん。


初めて都会の夜が怖かった。たちんぼの人たちを見るたびに、道で友達と発狂するまだ中学生の女子を見るたびに、避けて、避けて、この街はもう無理だ、渋谷という街が、噛みついてこない距離、だいぶ遠くまで行った。電車を乗り継いで、柵を乗り越えたから、タダだった。稲穂のそよぐド田舎。今度は、夜の水田と川が怖かった。水の中からはいつもきみがセックスの後黙りこくる時のような腹の底にぽちゃんと沈んだ鬱と死の匂いがした。水底には、もっと神聖なものとかもっと異形なものも混じっていた。不穏な風に乗って、黒板を引っ掻くような声で、自分の名前をよく聴いた。耳を痛いほど抑えても同じだった。幽霊か幻聴だろうと思った。はらわたを全部引き出して、その音を発するスピーカーを取り除いては鳴けなくなるまでぶっ壊したかった。昼間は大体駅のベンチで寝ていて、起こされたらトイレの個室でまた寝ていた。起きた時の、内臓が冷水に浸かったような凝りが、日に日にひどくなった。ドリエルを10錠くらい飲んでも寝られなくて、夕方不眠のギシギシする頭でベンチを散々に蹴って、捻挫と打撲でぐちゃぐちゃになって、泣きながらきみのことを思い出して、うずくまっていたら、不良に頭を踏まれて汚く笑われた。鼻と前歯が折れたもうしにたい、しにたい。財布にひとつだけ残っていた万札はどっかに落としたか摺られたみたいで、きみとの記念品を焼いてしまった気がして、電車に轢かれるのは痛そうで、飛び降りようと思って、また半日かけて都会に戻った。10階から飛んだ下に人がいて、下敷きになった風俗嬢の人は死んで、僕は全治三ヶ月だった。天井に偽物の空があってひとつしかない窓が異様に小さい病室で過ごした。人を殺したから死刑かなと思った。この部屋に知らない間に毒ガスが撒かれて、高校の授業で唯一覚えているユダヤ人虐殺みたいに骨になって死ねないかな。たまたま目撃者がいなくて、僕とその風俗嬢は心中したことになっており、何かよくわからない理由で不起訴になった。児相に行く年齢でもなくなっていた。妙に胸をかきむしりたくなった。そのことはアスファルトで潰れるガムみたいに取り除きたいのに触れたくない、でも絶対に取り除くことだってできないから、22という数字が頭の中で毒づいた装飾になった。気づいたら無精髭とくちゃくちゃのロン毛と、クマのひどい目と角ばった手の骨格と、すね毛と、僕は僕の恐れていた大人の男になっていた。身長も、道ゆく人はだいたい見下ろせた。いつも地面ばかり見ていたから気づかなかった。嘆くため息は、がさりと喉で鳴った。もう男であることからは逃れられなかった。


コンビニ横、公園のベンチ、しげみの中、いたるところで死んだように眠り、通報されては起きた。暑さのせいもあって、脳みそは完全に溶けていた。さいわい、連日酷暑だったので、服の上から水を浴びても寒くなかったし、フラフラしていれば乾いた。ああ、人からの目線。でも視界にもやがかかっていて、恥ずかしいと思うことすらまともにできなかった。


いつのまにかまた田舎の方に流れていた。人通りの多い歩道で寝ていたところ、工事現場のおっちゃんに拾われて、社員寮に居着いて、たまに事務と肉体労働をやって食っていけるようになった。おまえ、根はマジメなんだからさあ、マジメにやれよぉ、今度こそ。慣れてきたら週六で働け。資格もとりゃあいい。お前見てるとな、若い頃の俺を思い出すんだ。世の中舐め腐ってて、自分は天才だと思ってた、だからな。また、おっちゃんの長話が始まりそうだったので、チューハイを煽って、酔った。自分はアルコールにほんとうに弱い。2日にいっぺんは、意識が飛んだままで、ソファで目を覚ます。


年を追うごとに、都会のビル建設の現場の仕事が増えて、忙しくなった。工期、工期、工期、安全より工期、怪我人より工期、人の命より工期。工期、工期、工期。おっちゃんは目が死んだ。半分以上辞めて、何人かは首を吊るくらいブラックだった。その中で俺は(もうその頃には、自分の一人称はすっかり俺だった)、優秀な方だった。馬車馬のように働いた。言われた通りに、言われた通りに、自分が無くなっていく感覚が心地よかった。


おっちゃんは鉄柱が落ちてきて死んだ。それがだいぶ騒ぎになって、テレビでも報道された。仕事に行かずに社員寮に二週間引きこもっていると、同僚に追い出された。冬になった。都心で君を見かけた。服装が明らかに夜職。店外か。そこそこのイケメンで、育ちの良さそうな男の手を捕まえていた。会社ふたつも持ってるの? えーすごいなー。みり全然わかんないからそういうの。ん? 彼氏いたことはあるよ。きかないでよそんな。ほんとにあいつ暗くてさ。セックスの時もキモいし。おかげで鬱、鬱、この話やめよ? あとをつけて、マンションは特定した。会話から階層も分かった。タワマンというやつなのか、セキュリティは高かった。


包丁を買った。店の主人は俺の風貌を見て怪しがっていたが、こんど、姪っ子に料理でカッコつけたくて、俺、ニートだからせめて、可愛い姪っ子に馬鹿にされるとかほんとに嫌で、と泣いて、人生初の演技に案外自分もできるもんだなと感心して気づいたらきみのマンションの入り口にいて、それ以上は入れないから、ビル沿いの木の植った花壇のタイルに腰掛けた。通信制限があと1Gのスマホで、どうせなら使い倒してやろうとYouTubeを高画質で見ていた。きみが来た。


血ってこうやって飛び散るんだ。人を刺したあとって力が抜けちゃうんだ。あ、きみの顔、見とけばよかった。もう、うつ伏せで死んでる。誰かが叫んだのを皮切りに辺りが騒がしくなって、その狂乱に巻き込まれて自分もチューハイを飲んだ時みたいに快楽に酔い潰れて、包丁を振り回して、そうだどうせならきみの部屋から飛び降りて死のう。鍵はきみのポケットからすぐ。警備は血のついた包丁を向けて一発睨んだらオーケー。きみの部屋は22階。僕は児相に入れないと気づいた年齢。


走り回って表札を確認、旗井、みり。キーをガシャガシャとやると中から気配がした。


二人がけの、小さな、幸せのダイニングテーブル。そこにきみの彼氏が腰掛けて、あ、冴えない顔だな。恐怖で口がふにゃふにゃになって、目があさってだ。やっぱりきみは、冴えない男が好きだったんだな。股間から、みぞおち、胸、喉、顎まで、アルコールが沸騰してくる。昔、一軍に、カス言われて、顔面パンチされたときとおんなじだ。カッターナイフで、いや包丁で、目の下の、そこに。外れて、首をひとつ裂くと、きみをなくしてからずっと消えなかった胸のつかえが、取れた。


床にとくとく血溜まりが広がっていく。

玄関の鍵を閉めて、時間稼ぎをする。

やりたいこと。靴を脱いで、血に素足をひたす。なんで靴紐、こんなに固く結んだんだよ。

足が凍りそうだ。

そこに転がっていた、安い銘柄のタバコに、火を付けた。

吸うと、むせ返って、熱も咳に紛れて冷めた。

裸足で血の感触をペタペタと味わい、窓の外の夜景に目をやる。

月の何百倍もまぶしい光が、星の数ほどあった。

東京が、渋谷が、港区が、灯りの裏にいる経営者と、通りのパパ活女子が、怖くない。


きみの、喘ぎ声、性器が熱を帯びていく。何度も、きみに触れたこと。柔らかさ、感じるタイミング、拗ねてもうやめてしまうところ、全部覚えてるよ。

ゆるしてあげる。

きみのせいだよ。こうなったのは。

だって、セックスのたびに鬱とか。

だって、僕がいなくなって、探してくれなかったんだもの。

でも、ゆるしてあげる。

きみが、飛び降りたら死ねるたかさに住んでいてよかった。

僕も、すぐそこに行くよ。

一緒に外の世界で、笑おう。

僕ら、あのまんまでよかったんだ。群青の空気をいっぱいに吸い込んで、モンエナ飲みながら駄弁ろう。

ここを退学して、自由になるんだ。


手の甲にふっとなめらかであたたかいものが触れた気がして、きみの手だと気づいて、ひかれるままに窓を開けて、ベランダに出て、下、確認しなかったな。また誰か巻き込まれるかな。とりあえず自分が死ねればどうでもいいや。そういえ……




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