第4話 神域

「……じゃあ、ボクが神だって信じてくれる?」


 美澪は頬をポリ、とかいて視線を彷徨さまよわせた。


「え、えーっとぉ……」


 歯切れの悪い美澪の態度に、ヴァルは幼子おさなごのように指を差し、


「ひどい! やっぱり信じてないんだ!」


 と言った。ヴァルのガラス玉のように澄んだ瞳の表面に、うっすらと涙の膜が張っていくのを見た美澪は、ぎょっとしてあわあわと両手を振った。


「信じます! 信じますから! 機嫌を直してください! この状況を説明できるのはヴァルだけなんです。あたしが今、頼れるのはヴァルしかいないんですよ?」


 そう言うと、ヴァルの機嫌が急上昇するのが明らかに見て取れた。


「ほんと?」


 こくこくとうなずいてみせる。


「はい!」


「美澪には、ボクしかいないの?」


 「え、」と動きを止めた美澪は苦笑いを浮かべた。


「その言い方は、いささか語弊がある気が……」


 神様相手に何をしているんだと思いつつ、見かけに似合わず精神年齢の低いヴァルに内心で辟易へきえきしていると、まるで美澪の考えを見透かしたように彼の表情が曇っていった。


 気のせいか、ヴァルの心情に合わせて天候が変化しているように思える。


(まさかね……)


 あり得ないと首を横に振った。


 しかし、曇り空に暗雲が垂れ込め、遠くで雷鳴がとどろき出したことをきっかけに、美澪の疑念は確信へと変わった。


「嘘です、その通りです! あたしにはヴァルしかいません!」


 やけくそ気味で言い放てば、ヴァルはパアッと表情を明るくし、そのまま美澪に抱きついてきた。


 ひと仕事を終えたあとのように疲れた顔をした美澪が天を仰げば、先ほどの悪天候が嘘のように雲ひとつない晴天へと変わっていた。


「そうだよね! 美澪にはボクだけなんだもんね!」


 言いながら頬をスリスリと擦り付けてくるヴァルに対し、


「ソウデスネ……」


 と応えた美澪は、再び彼の機嫌を損ねるわけにもいかず、大人しくされるままでいた。


 その後、ようやく満足したらしいヴァルが美澪から離れて、


「美澪、見ていて」


 とおもむろに右手の指を鳴らした。


 すると驚くことに、空の色が黄昏たそがれへと変化したのだ。深い群青色に黄やだいだい、赤などの色が線状に交わって美しいグラデーションを作り出し、空にかかる雲の群は黄昏色に色づいて、それらが鏡合わせの水面に映る景色はなんとも幻想的だった。


「凄くきれい……」


 眼前に広がる美しい景色に思わず瞳を奪われていると、ヴァルがくすっと笑う気配がした。「どう? 気に入った?」と聞かれて、美澪はこくりと首肯した。


「ねぇ、ヴァル。あなた、なんでこの場所の天候を操れるの?」

 

 ヴァルはニコッとほほ笑んだ。


「さっきの質問の答えになるんだけど、ここがボクの神域だからだよ。なんでもボクの思い通りにできるんだ」


「しんいき?」


「そう。神の領域。――ようは、ボクの心象風景ってことかな」


(心象風景……)


 つまりここはヴァルの心の中の景色ということだ。


 しかしそれにしては、


「何もないですね……」


 ぽつりと口をついて出てきた言葉は、なんともいえない哀愁を含んでいた。


「初めてここに来た時の青空も、今の夕焼け空も、心が揺さぶられるくらい綺麗きれいです。360度ずっと、どこまでも続いていて……。静かで、空気が澄んでいて。……でもそれだけ。綺麗なのは景色だけで、他には何もない」


 今、美澪が抱いている気持ちが悲哀なのか哀傷なのかはわからない。


「ただひたすら変わらない景色が広がっているだけで、他には何もないんです。……ここはヴァルの心の中なんですよね? なのに、人も物も動物も草花も、一つも見当たらない。――あたし、ヴァルが神様ってこと、信じます。だって、こんな奇跡みたいなことを目の当たりにしちゃったら、信じるしかないです。でもやっぱり、神様だからって心の中に何もないなんて……なんだか変、です」


 言うと同時に、なぜか寂寥せきりょうの思いが胸底から湧き出てきた。美澪は空色のセーラー服の上から、そっと胸元を押さえる。


(ヴァルとは出会ったばかりなのに、なんでこんな気持ちになるんだろう)


 あまりにも親しげに接してくるので忘れそうになるが、ヴァルとはつい先程まで全く面識がなかったのだ。


 にもかかわらず、ヴァルと共にいると懐古的な気持ちが生まれ、その心に寄り添ってあげたい気持ちが沸き上がる。17年間生きてきて、こんなに強い気持ちを誰かに抱いたのは初めてのことだった。


(あたし、どうしちゃったんだろう……)


 そうしてふと、ヴァルが何も言ってこないことに気が付いた美澪は、ハッとして顔を上げた。


「ヴァ、ヴァル……?」


 そこには、表情から感情がごっそりと抜け落ちたヴァルがいた。


 先程までとは打って変わって、冷たい彫像のようにたたずむヴァルの姿に、美澪はひゅっと息をのむ。心なしか周囲の気温が下がったように感じた。


(もしかして、触れちゃいけないことだった?)


 美澪は顔が青ざめていくのを感じながら、ごくりと生唾を飲み込み、おそるおそる口を開いた。


「あ、あのっ! あた、あたし、余計なことを……」


 言いながら、足を一歩前に踏み出した瞬間――


「キミがいる」


「え?」


「美澪がいるよ」


 温度を取り戻したテノールの声が、神域を満たす清浄な空気の中に吸い込まれていく。


 美澪はヴァルの急激な変化に戸惑いつつも、自分を見つめる瞳の奥に慈愛の色を見つけて、緊張していた心をゆるゆると和らげた。


「ヴァル……」


 元の調子に戻ってくれてよかったと、ほっとしたのもつかの間。つい先程、告げられた言葉を理解して、大いに困惑することになった。

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