第2話 異世界召喚

(何これ……)


 自分の置かれている状況が理解できず、美澪はその場に呆然ぼうぜんと立ち尽くした。


 叩頭こうとうしたままで身じろぎ一つもしない人たちは、みな、白地に青色で縁取られた西洋の司祭平服キャソックのようなものを身にまとっている。


 そして、そんな彼らの前で一人だけ跪拝きはいしていた初老の男性が、美澪に向かって恭しくお辞儀をした。


神の愛し子エフィーリア様。お初にお目にかかります。私はここ、ブロネロー神殿の神官長を努めております、リヴァースと申します」


「えふぃーりあ……しんかんちょう……」


 聞き慣れない文字の羅列が耳を素通りしていく。


「はい、そうでございます。……もしや、エフィーリア様の故国には、存在しない役職なのでございましょうか?」


 言って、首を傾けたリヴァースの顔を食い入るように見つめた。


 リヴァースの瞳は青紫色をしており、見る角度によって青や紫にも見える不思議な色合いをしていた。


 日本ではまず見ることのない、タンザナイトのような瞳の中に、恐慌をきたす寸前の美澪の姿が映っている。


 ――人智じんちの及ばない何かが干渉している。



「……っ、」


 そう瞬時に悟った美澪は、後退し、リヴァースから距離をとった。


「エフィーリア様……?」


「っ、イヤ!」


 突然おびえ出した美澪に、心配そうな顔をしたリヴァースが手を伸ばしてきた。美澪はその手をバシッと払い除ける。


「エフィーリア様?」


 美澪に拒まれると思っていなかったようで、リヴァースは驚いた表情を浮かべて目を丸くしている。


 美澪の顔には、隠しようのない警戒心がありありと浮かんでいた。


「……お願い。あたしに近づかないで……!」


 そうしてじりじりと距離を離しているうちに、美澪はハッと、自らの足元に違和感を覚えた。


 例えるなら――そう。まるで、ウォーターベッドの上に立っているような不安定な感覚に似ていた。そんな浮遊感にも似た感覚の原因をつかむため、おそるおそる自身の足元を確認した。すると、


「――え?」


 驚くことに、黒いローファーの靴底は、水面に浮かんでいたのだ。


「うそ、ありえない……!」


 美澪は恐怖に引きつった口元を手で覆った。


 にわかに信じられない光景を瞳にして、血圧が一気に下がったのを感じた。


 美澪の顔は色を失い、ぶるぶると震えだした身体からだを抱きしめるようになでさすった。


(あれ……?)


 そうして、そのときに始めて、全身がずぶぬれであることに気がついた。


(そういえばあたし、図書室で不思議な本を読んでいて……いきなり水中に……)


 そう理解した途端、美澪の頭の中は真っ白になり、戦慄く唇からカチカチと歯の鳴る音がした。


 そのうち、呼吸が浅く早くなり、両手の指先の体温が失われしびれていった。美澪は、はっはっと息を吸いながら、感覚を失いつつある両腕を持ち上げ、自分の頭を抱え込んだ。


(苦しい、息ができない。あたし、死んじゃうの……?)


 美澪がパニック発作を起こしている間、誰かが必死に呼びかけてきたような気がしたが、その言葉を理解する余裕はなく、ついには水面に倒れ伏してしまった。


(……こわい。恐いよ……お父さん、お母さん……)


 白くまろい頬を、一筋の涙が流れていく。それは水面を通り抜け、やがて水と混ざり合い、溶けて消えていった。――その瞬間、


 水面が強く発光し、金の粒子のようなものが美澪の身体を包み込んだかと思うと、倒れ伏していた身体はひとりでに起き上がり、まるで聖母マリア像のように、神官たちに向けて両腕を前に差し出した。


 意識をもうろうとさせ、むせび泣いていた美澪の変わりように、リヴァースたちは動揺し身構えた。


「エフィーリア様。どうか、お気をたしかに……!」


 その呼びかけに応えるように、美澪は閉じていた目蓋を鷹揚おうように開けた。すると驚くべきことに、彼女の瑠璃色の瞳が、星くずを集めてつくられたような、神秘的な金色こんじきに染まっていたのだ。


 今まで叩頭していた神官たち、狼狽ろうばいしていた神官長らは、がらりと変化した美澪の様子に騒然となった。


 皆が混乱し、神官長に指示を仰ごうと集まる中。それまで動きのなかった美澪の口が開いた。


『聞け、信徒たちよ』


 言われ、皆が一斉に振り向いた。


が名はヴァートゥルナ。万物の生と死を司るもの』


 その場にざわめきが起きたものの、神官長の一瞥いちべつにて場は落ち着きを取り戻し、美澪――ヴァートゥルナ――に向かって一斉に叩頭した。


『この者――泉 美澪は、私の愛する子エフィーリア。万物の根源にして、人の魂を浄化し慰める者』


 おお、やはり、と控えめな声が上がる。


『その名は、ミレイ・エフィーリア・ディ・ヴァートゥルナ・ヒュドゥーテル。――私の心にかなう者なり』


 言って、声が途切れると、美澪の身体はひときわまばゆい光を放ったのち、その場に崩れ落ちた。


 光が消え去り、その場に静寂が満ちる。神官長――リヴァースは、泉に駆け寄り力なく横たわる美澪を抱き上げると、「メアリー」と声を上げた。


 リヴァースに呼ばれ、彼の足元に参じて跪拝した少女――メアリーは、「お呼びでしょうか、神官長様」と面を上げた。


 「うむ」と振り返ったリヴァースは、「ついてきなさい」と言って神殿の奥へと歩き出した。彼が向う先には、高貴な要人のために用意された居室がある。


 リヴァースの3歩後ろを影のように追いかけていたメアリーに彼は言った。


「今この時より、おまえを還俗させ、エフィーリア様の侍女の任を与える。メアリー・ド・ラウィーニア。手抜かりなきよう、一心にお仕えしなさい」


 メアリーは間を置かず、


「ありがたき栄光に感謝いたします。ブロネロー神殿の元見習い神女しんじょとして、ヴァートゥルナ様と神官長様に恥じることのないよう、誠心誠意お仕えいたします」


 言って、床に額を擦り付けて叩頭した。





 ――誰かが呼んでいる声がする。


 かすみのようなはかない声に、美澪は閉じていた目蓋をそっと持ち上げた。


「――え?」


 美澪は視界に飛び込んできた景色に瞠目どうもくする。しばしほうけたあと、ゆっくりとした動作で、周囲をぐるりと見回した。そうしてガラス玉のような瑠璃色の瞳に映ったのは、水が薄く張った平らな水面に、真っ青な空と白い雲が鏡合わせのように映り込んだ幻想的な光景だった。


 眼前に広がる美しい景色に思わず見惚みとれていると、


「――どう? 気に入った?」


 と含み笑う声が聞こえ、美澪は後ろを振り返った。そうしてそこに立っていたのは、物語に登場する神や精霊のように、優美で神秘的な容姿をした少年だった。


「やっと会えたね。美澪」

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