エピローグ

お弁当箱と椿棗

 鳴湖駅からわたしの家までの坂を電動アシスト自転車で駆け登りながら、わたしは今日の学校での出来事を考えていました。焦る気持ちにペダルを漕ぐ足にも力が入ります。

 坂の上の家に着くとママの4WDの軽自動車の脇に雑に自転車を停め、玄関へ駆け込みました。


 ──弁当、いつも美味そうだな


 最近よく話すようになったクラスメイトがわたしの曲げわっぱを覗き込み言いました。


 ──美味しそうじゃないよ、美味しいの。なんなら作って来るから食べてみる?


 ──お前が、作ってくれるの?


 わたしとしてはママの料理の自慢のつもりでした。でもそれを聞いた彼の表情が花開くようにパーッと期待に輝くのを見て、しまったと思いました。


「ママ! お弁当の作り方教えて下さい!」


 廊下をどたどた音を響かせて渡り和室の襖を勢いよく開けると、お茶道具を手にしたママは目を丸くして顔を上げます。傍らには桐の小箱、ちょうどそのお茶道具を片付けるところだったようです。




「なるほどなるほど♪」


 台所でわたしの隣に立つママが楽しそうに唐揚げを油に浮かべながら言いました。わたしはあまり楽しい気分ではありません。わたしが作れるのは今のところ玉子焼きだけなのです。


「よく食べる子?」


「わかんないです」


「うーん、お弁当箱もうひとつ、出してきて?」


 ママが先に唐揚げの衣がついた菜箸で古い水屋箪笥を指します。上の段の引戸からわたしがいつも使っている物よりも大きい曲げわっぱを取り出しました。その曲げわっぱは少し古い物で蓋や口の角が摩耗して丸くなっています。それでも新品とまでいかなくても綺麗見えるのは、鳴湖漆器の職人でもあるママが漆を時々塗り直しているからです。


「ママも昔、その、男の子にお弁当作ったりしたんですか?」


 曲げわっぱを手に聞くとママは目を三日月のようにしてくすくすっ♪ と笑います。


「遂に娘とこういう話をするようになったのね♪」


「真面目にー」


「ふふふっ♪ そうね、高校生の時そのお弁当箱で」


「これで?」


 わたしは手にした曲げわっぱを改めて観察しました。何個かある内、偶然手にした曲げわっぱはなんと昔ママが使った物でなのでした。そしてその曲げわっぱを見てママがふわっと笑います。


「そうそう、そのお弁当箱で。2年間だいたい毎日」


「毎日!!」


 大変な事になってしまった、とわたしは思いました。明日、持って行ったお弁当を食べて貰ってもしクラスメイトの彼が気に入ったら、わたしも毎日作る事になるのでしょうか? そうなれば玉子焼きだけではなく他の料理も覚えなきゃいけません。でも、不思議とその事を無理だとは思いませんでした。

 


 明日の朝の、おかずを詰める手順を習いながら、わたしはさっきママがこの曲げわっぱを見た時の表情を思います。あのお茶道具を手にした時と同じだ、と思いました。わたしはふと気になってママに聞きます。


「ねえママ、あのお茶道具、なつめって言うんでしょ?」


「そうそう♪ ママと同じ名前」


「それに、描いてあるの椿の花ですよね? ママが結婚する前の苗字と一緒の」


 この台所で毎日お弁当を作る同い年くらいの女の子の姿をわたしは思い浮かべました。


「ひょっとしてママのお弁当の相手、あの棗を作った人?」


「ふふふっ♪ どうでしょう」


 そう言って笑うママにわたしはそれ以上は聞きませんでした。目下のところ、わたしが気にしないといけないのは親の恋バナではなく明日のお弁当の事なのです。



 椿の花はもうすっかり散ってしまい、今日ママはあの棗を桐の小箱に丁寧にそっとしまいました。そしてまた来年、箪笥から引き出して桐の小箱から優しく取り出します。柔らかい布で拭き上げ、一番綺麗に見える位置に調整して、そっと床の間の飾り台に設えます。丁寧に丁寧に、ひとつひとつ、確認するように。

 

 来年のその時までにわたしはどう変わってゆくのでしょう。お料理は上手くなっているのでしょうか。毎日お弁当を作っているのでしょうか。わたしの中の小さな蕾はどんな花を咲かせるのでしょうか。


 来年の椿の花が咲く頃に、ママの棗にそっと報告しよう。わたしはそう思ったのでした。



『前世が漆だとか言う工芸部の後輩がグイグイ来るが、職人たるもの顔色ひとつ変えない。』 終

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