第38話 工芸は紡ぎ出す

 正直なところ、時間的に今から全部やり直すのは無茶だと言うことは分かっていた。最初から漠然と、椿をイメージした物ではあったのだけれどそれでは足りない、と思った。ケヤキ並木のベンチで涙を零す椿にちゃんと応える物にしたかった。


「それで、これを削り直せと?」


 僕が鳴湖の工房を訪ねて事情を説明すると尾形が驚いたように言う。無理もない、半分以上仕上がっているのだ。


「だいたい、そんな敵に塩を送るような真似、俺がすると思う?」


「尾形は、してくれると思う。と言うか、尾形にしてもらいたい」


 自分でもらしくない、とは思う。でもこれは本心だったし願いでもあって。かつてはあらゆる職業がもっと分業制だったように、僕は僕の塗るものをちゃんと木地屋に依頼したい。そうやってお互いに必要として、信頼して、そんな仕事がしたい。そう願っていた。


「わざと失敗するかもよ?」


「いいよ、尾形に任す」


「チッ、なんだよ、その変わり様は」


 舌打ちする尾形だったが笑ってやり直す木地を受け取ってくれた。

 木地の削り直しは木軸ペンなどを削るいつもの木工旋盤ではなく、鳴湖の木地屋の伝統的な木工轆轤もっこうろくろだった。尾形が木地を固定し手打ちの刃物を回転する器物に当てる。シュルシュルっと控えめな音がして木屑が舞う。


「オッサンになっても」


 舞う木屑に目を細めながら、尾形がいつものニヤけ顔でぼそっとこぼした。


「オッサンになっても、こうやって一緒に仕事できるといいな」


 本当に、そうだな。僕は尾形に笑って返した。



 尾形に削り直して貰った木地は工芸部の部室に持ち込んだ。朝と放課後、そして完成までは椿に弁当を断り昼休憩も作業に当てる。それでもギリギリだろう。床に座って作業する僕の姿が祖父の千台箪笥、千台木地呂に映っていた。

 千台箪笥職人の杉野さんは「箪笥に込められた想いは100年残る」と言っていた。僕はこの作品に100年残るように僕と椿の今の気持ちを込めたい、と思う。

 僕も椿もまだ未熟で、だけど僕たちのこれからが何も変わらないなんて信じられるほど子供でもない。それでも。



 ケヤキ材の木地を研磨して漆を染み込ます。砥の粉とご飯海苔と漆を混ぜた錆漆を、ケヤキ深い導管にヘラでしごいて充填する。そして導管だけに残して全て砥石で削り落とす。

 

 作業を進める間、僕はずっとひとりだったけれど部室には蒔絵先輩と過ごした記憶の気配がキラキラと漂っていた。

 僕らの想いがどれだけショボくてもチンケでも、誰に何を言われたって込める。叫ぶ。否定されたり批判されるのが怖いわけじゃない、でも僕たちはそれ以外に手段を持ってない。

 蒔絵先輩、僕たちはまったく不器用な師弟じゃないですか。「ぬふふふ♪」と蒔絵先輩の笑い声が聞こえるようだった。



 漆を塗って拭き切る拭き漆作業を10日ほど。少し無理をして同時進行で内側を塗り込む。最後の加飾までに『間』となる部分を完全に仕上げなければならない。塗っては研いでの地道な作業が続いた。


 部室に漂っていたキラキラとした気配は、いつしか椿との記憶に変わっていた。

 突然やってきた前世が漆の女の子に僕の平穏は崩されて。でも平穏だと思っていたのは前も見えない、何も聞こえないような雪の降り頻る寂しい真冬でしかなかった。

 ぽつんと小さな赤い蕾が綻んで、そして咲いた一輪の椿の花がもうすぐ来る春を教えてくれた。

 ケヤキ並木の生茂る葉の隙間からこぼれる夏の日差しを。秋の夕暮れの中グランドから聞こえる軽音楽を。クリスマスの寒い夜に何十万の照明で照らされた光の道を。そういった物を教えてくれた。

 そして椿が見せてくれた色々なものが、僕の感性を今、変化させた。だからだろうか、木地の上部の丸みが気になってしまった。

 これがいつか尾形が言っていた感性が衝き動かされる、と言うやつなのか。もう少し、ほんの0コンマ何ミリ外周部分が低い方が······。

 「ああくそ、しょうがない」と僕はひとりこぼして、塗り上がりつつあった上部外周にサンドペーパーを当てた。

 

 作業はずいぶん戻ってしまったが、それでも無理だとは感じなかった。手をかければ良い物が作れるという訳でもない。それでもひとつひとつの工程に、ひとつひとつ僕の想いを確認した。

 漆を濾して、希釈し、刷毛で配り、布でムラを切り、和紙で拭き切り、漆室に入れ、それを10回繰り返す。ひとつひとつ確認するように。



 2月も後半、いよいよ加飾の工程に入る。僕の祖父が残してくれた、祖父の千台箪笥が繋いでくれた、その千台木地呂で、木地の蓋から身に跨いで椿の花を描く。


 まともに使った事もない蒔絵筆でアウトラインを描くのにとても苦労した。手が震え線がブレる。慎重に筆を運ぶと勢いがなく描写が死ぬ。ここがこの作品の肝なんだ。納得いかず何度も描いては拭き取りやり直した。

 僕を誂う時の三日月のような目や、拗ねて突き出した口唇や、上機嫌で奏でる鼻唄や、大粒で溢れた静かな涙や、椿の花が綻ぶような笑顔や。

 椿が僕に見せてくれた色んな椿の姿を、蒔絵筆を通して千台木地呂で描く。違う、こうじゃない、椿はもっと······。

 何度目かの失敗の後、椿自身が筆で椿の花を描く時の事を思い出した。同じようにまずは肺の中の空気をゆっくり吐き出してみる。そして息を吸いやおら止め、集中する。

 

 その時、周りの音が消えた。

 僕の手と蒔絵筆を隔てる感覚が消えた。


 視界がぼやけ僕の目は筆先を見るでもなく、真上から距離を保って全体を見るような鳥瞰的な視線と、間近で筆先から漆が置かれるのを見るような虫瞰的な視線が混在する。

 今、漆と繋がったと勘違いしたくなるほどの集中が僕を包んでいた。

 描き終えて筆先を離しひとつ呼吸をすると、そこに椿の花が咲いていた。


『出来ました♪』


 集中を解き、顔を上げる時の椿の声とふわっとした笑顔が心に浮かんだ。


 

 これで完成······ではないんだ。このあと上塗りを砥石で研いで磨いて漆を摺り込んで、とあと数日は作業は続く。

 椿の花を描いた木地を漆室に入れて、部室の床に仰向けになった。「片付けしなくちゃ」と口にはしたが体は動かなかった。

 思うように漆が塗れた満足感と、やるだけやったという充実感と、さらけ出してしまったという羞恥心とで僕の中がいっぱいで。

 まったく、こんな事は毎回出来ない。これなら何も考えず職人に徹する方がよっぽど楽だ。



 そのまま少しウトウトしていたのだろうか。静かに部室のドアが引かれる音でその事に気がついた。気配がして薄く目を開ける。そこでは椿が常盤の上で使ったままの道具を洗っていくれていた。


「······部外者立ち入り禁止だぞ」


 僕が言うと椿はくすくすと笑う。


「元部員ですから。幽霊部員じゃなくて部員幽霊?」


「なにそれ。そしたら僕は部室に縛られてる地縛霊部員か?」


「お祓いしてあげましょうか?」


 そう言って椿は蒔絵筆を神主の御幣ごへいの様に左右に振る。


「成仏しちゃうだろ。まだ完成してないんだから」


「ずっとここに縛られてたらいいのに。そしたらわたし毎日会いに来ちゃいますよ♪」


「あの世に引きずり込んでしまうかもよ?」


「それもまたいいですね♪ でも今日のところは」


「イチャイチャしてねーで帰るぞ」


 部室の入口にもたれてニヤけ顔の尾形が僕を見下ろしていた。


 2月の冷たい空気は乾燥していて、漆は乾きにくいけど夜空の星はよく見えた。僕らはその下を連れ立って駅までゆっくり歩いた。

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