「抽斗」って読めますか?

第21話 漆の日

 祖父が亡くなったのは漆の日だった。

 

 身内だけで行ったささやかな葬儀、親族の中でその日が漆の日だったことを知っているのは僕だけだったろう。

 それはしょうがないことなんだ。だって漆に携わってもいなければ、こんなマイナーな日を知る由もなく。


 参列者が僕たち遺族に頭を下げそれに応える。

 頭を上げた動作のまま祖父の写真に視線を向けた。


 写真の祖父の眉間には深い皺が刻まれていた。


 

 祖父の家は江戸時代から続く漆塗り職人の家系だったらしい。

 食器や生活雑器などの漆塗りを手がけ、幕末には箪笥などの大型家具を専門に扱うようになったそうだ。


 祖父の職人全盛期、その頃にはもう工芸は下火だった。

 立派なビルが立ち、広い道路が伸び、家が次々と立ち、物が売れ、人々は笑顔だった。

 なのに、その時祖父は眉間に皺を寄せ箪笥に漆を塗っていた。

 同門の職人仲間達はもっといい暮らしを夢見て、漆のヘラを左官のコテに持ち替えたという。

 

 箪笥はその頃、嫁入り道具の婚礼セットとしてむしろよく売れた時代だった。

 たくさんの注文、新しいデザイン、増える問屋、価格の競争。

 職人はそれらに応えるために、生きていくために変わらないといけなかった。

 

 生産性を上げ、原価を下げるため、ケヤキや栗や杉の無垢材は、木枠にベニアを張ったフラッシュ構造に変わった。

 

 漆刷毛はエアスプレーガンに変わり、砥石は電動サンダーに変わり、漆すら合成樹脂塗料に変わった。

 

 漆焼付の手打ち金具は、東京の板金工場でプレスした薄い鉄板に黒いラッカーが塗られた。

 

 好景気、大量生産に工業化、激しい価格競争。

 止まれなかった、作り続けなければならなかった。

 150年以上続く千台箪笥せんだいたんすの歴史を、伝統を途絶えさせてはいけなかった。

 

 でも、祖父は変えなかった。

 細々と、淡々と、黙々と、粛々と、少ない手塗り箪笥の仕事を行った。

 

 そうして漆の日、千台箪笥の伝統の漆塗りの技術は絶えた。



「せんぱい······」


「ああ、来てくれてありがとう。」


 斎場で制服姿の椿が僕に声をかけてくれた。

 尾形と目が合い無言でお互い頷く。

 鳴湖漆器職人の椿の父親、それに同じ鳴湖の木地師、尾形の父親も参列してくれた。

 同じ県内の職人ということで、昔一緒に仕事をさせてもらった、と尾形の父親が僕に教えてくれた。


「原さんの塗りは本当に綺麗だったよ」


「ありがとうございます。それを知っていてくれる方がいるのが嬉しいです。」


 職人である祖父が亡くなっても、新聞に訃報が小さく載るだけで。

 祖父が磨き上げた宝石の様な技術も、一緒に消えてしまったことを知る人は少ない。

 だからといって千台箪笥が途絶えたわけじゃない。

 今も新品の箪笥が生産され買い求められる。

 その箪笥が無垢材ではなくベニアで、手打ち金具ではなくプレス成形金具で、手塗りの漆ではなくスプレーガンのウレタン塗装である事は知られずに。気にされずに。求められずに。


 技術やデザインはどんどん進歩いていく。

 大げさだけど、今にAIやロボットが作った物と人間が作った物の見分け何かつかなくなるだろう。


 じゃあどうして多くの工芸品は今も手で作られるのか?

 どうして祖父は眉間に皺を寄せ漆を塗り続けたのか?

 どうして椿や、蒔絵先輩や、尾形は手でモノを作るのか?


 僕は? どうして?


 


 日はとうに沈み、肌寒い斎場の駐車場に僕は立っていた。

 なんだか何もかもが遠いような感覚の中で、ふと僕の手に温かい物が触れる感触がする。

 椿が僕の手をそっと握り、笑うでもなく泣くでもないような表情で僕の顔を見上げている。


「この時間になると、さすがに冷えるな」


「そうですね」


 そう言って、椿は僕の手を包むように握り直した。


「温かいな、手」


「ふふ、そうですか?」


 僕はその温かい椿の小さな手を強く握り返した。


「もっと早く漆を始めて、もっとしっかり習っておくんだった」


「今からでも」


「いや、僕なんて何でもないから。ちょっと漆が塗れるくらいのただの高校生。一生かけるような覚悟も、まして漆の日に逝くなんて事も出来ない」


 そんなこと······と言って椿は俯いてしまう。

 つまらない事、ごめん。と言うかわりに椿の手を握り直し夜空を仰いだ。

 


 駐車場の隅の方では椿の父親や、尾形親子が立ち話をしている。

 祖父の死を悼んでくれると共に、受け継がれた技術や伝統の死を嘆いてくれる。


 僕は斎場を振り返る。

 斎場の入口では僕の両親や親類が参列者と挨拶し言葉をかわしている。

 彼らだって心から悼んでくれているんだ。

 ただ、祖父と一緒に逝ったかけがえのない物の事を知らないだけなんだ。


 僕は駐車場の真ん中にただ立っている。

 まるでここは境界みたいだな、と思う。

 あっちの世界とこっちの世界と。

 じゃあここは何処なんだろう。


 俯いたままの椿と、天を仰いだままの僕とが繋いだ手の温かさだけが僕の拠り処のようで。

 どちらに行くことも決断できないでいる僕は、そうして暫く椿とふたり、駐車場に佇んでいた。

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