第9話 せんぱいの塗り、好きですよ?
水を張った桶に希釈した赤や黄の色漆を流し込む。色漆は沈む事なく水面にとどまり、薄い膜となる。それを割り箸で動かしマーブル模様を作る。
「そうそう。ペン軸ならもう少し細かい模様のほうがいいかな」
「こうですか?」
椿家の工房で僕は椿の父親から『龍紋塗』の指導を受けていた。
漆の各種技法は指導書にも記されているし、最近では無料動画でも簡単に検索できるようになってきた。
しかし、例えば漆を何パーセントで希釈するのか、色の顔料をどのくらいの割合で何分混ぜるのかなどなど、文章や動画だけではわからないことが多い。
実際に作業を見せてもらう、作業の横で指導してもらう以上の近道はないのだ。
「そうしたら塗るものを潜らせて。そう、そのペースで」
「はい」
木軸ペンに見立てた木の棒を水面の漆に潜らせると、それに赤と黄のマーブル模様が移る。
「うむうむ、原君センスいいよ。あとは色なんかも変えて練習してください」
「はい。ありがとうございます」
ホントにお婿に来ない? と椿の父親。返答に困っていると椿が工房のドアから覗いていた。
「せんぱい、パパ。ちょっと遅いけどお昼の準備できました〜♪」
3人で店内に戻ると、椿の母が漆塗りのテーブルのひとつに料理を運んでいるところだった。
「原くん座って。なつめは運ぶの手伝ってね」
「はーい♪」
テーブルに続々料理が運ばれる。サラダに煮物、薬味たっぷりの豆腐、メインは川魚の塩焼き。もちろん椿が作ったと思われる玉子焼きもあった。
そしてそれらが全て漆の器に盛られている。
漆に携わっているとはいえ、普段の生活全部で漆の工芸品を使っている者は稀だろう。せいぜいお椀や箸くらいだろう。
だから、ここまで漆塗りの物が並んでいる食卓なんて贅沢極まりない。
「ささ、遠慮なくどうぞ」
「いただきます」
念願の漆塗りの箸でまずは玉子焼きを頂く。咥えた時の唇に触れる箸の感触は本当にきめ細やかで。さらに口から抜く時はスルッと抜け全く摩擦がないかのよう。
この感覚はちょっと感動的で、是非みんなにも一度試して欲しいものだ。
食後には、ちゃんと豆から挽いたコーヒーを頂きながら、椿の家族と学校や部活の話をしていた。そこで不意に部活の仲間である尾形の話となった。
「そういえば、尾形さんとこの光くんも同じ学校の工芸部だったかな?」
「そうですね、漆に弱いそうであまり部室には来ませんが」
僕は全然そんなことはないが、漆に弱い人は直接触らなくても同じ空間にいると肌がピリピリするらしい。
「ん? そうだったかな? 尾形さんと一緒によくこの工房にも来てるんだが」
聞くと椿の父親と尾形の父親は、同じ産地の職人同士と言うこともあり、よく一緒に仕事をするらしい。
いわゆる木地屋と塗り屋の関係だ。
「小さい時から、なつめの面倒もよく見てくれててね」
ん? ということは椿と尾形は最初から面識があったということだろうか?
部活での事を尾形に話した時はそんな素振りもなかったが。
そして椿からも、尾形に関する話を聞いたことがない。
問いただそうと思ったわけでないが、隣に座る椿を見る。
椿は父親と僕を視線だけで交互に見てソワソワと落ち着きない。
「尾形、今もよくここに?」
「そうそう、最近は光くんが挽いた木地も塗って販売してるんだよ。ほらこのフリーカップ」
僕は今まさにコーヒーを頂いていたカップを眺めた。
「これなんかは光くんに挽いてもらって、なつめが塗ったんだよ」
「ちょ、パパ······」
いいカップだった。
安定感のある重心に、厚すぎず薄すぎず絶妙な上部の縁。
ムラもなく均一に塗られた漆は艶々と輝き、ワンポイントの植物の模様はさりげ気なく、しかしその線は生き生きしている。
椿の父親に悪気はないのはちゃんとわかっている。
自分の娘や、工房に出入りする若い職人である尾形が誇らしいんだ。
でも僕は正直ショックだった。
同じ高校生の仕事と思えない。
僕には到底届かない、木地屋と塗り屋の仕事のそれに思えた。
「······せんぱい」
椿が僕を伺うように覗き込んでくる。
今の僕はどんな表情をしているだろうか、自分ではわからない。
心の内でモヤモヤするこの気持ちの正体もよく分からなかった。
同年代の者が先に行っている事に対する焦り? 置いて行かれる寂しさ?
「すごいな、椿も尾形も。とてもいいカップだ」
でも大丈夫。
職人は常に謙虚であれ。
他人と比べず自分の仕事を淡々と行え。
多くは語るな。顔色を変えるな。
大丈夫、いつも通りに。
「僕もいつかこんな仕事ができるようになりたい」
僕は笑顔で言えたと思う。
でも僕の腕にそっと触れた椿はなんだか不安そうな表情で
「でも······わたし、せんぱいの塗り、好きですよ?」
と言った。
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