低温低湿度先輩くんと漆後輩ちゃん
第1話 漆······乾きませんよ?
気温は24度から28度。
湿度は70パーセントから85パーセント。
これは漆が乾く最適な環境と言われている。
もちろん地域や季節、それこそ一日の内にも自然と変化するものだから環境の管理を怠ってはいけない。
「せ·ん·ぱ·い♪」
時に霧吹きで水を撒き、時にペット用ヒーターで温度を上げ『
塗りの作業が始まると放課後の部活動の時間以外にも少し早く登校してHR前に、またお昼休憩には昼食持参で漆室の様子を確認に来る。
必然的に昼食は部室で取る事となるが、これは僕がぼっちで一緒に昼食を取る友達がいないということではない。決して。ホントに。
「せんぱ〜い♪」
とはいえ事実、この春二年生へと進級した新しいクラスで、僕が会話を交わす相手はほぼいない事は冷静に受け止めなければならない。
職人に憧れる者として寡黙である事は決して恥ずべき事ではないし、むしろそう在るべきだと思っている。コミュ障ではない。ホントのホントに。
幸いにも同じクラスには僕の所属する工芸部の部員がいる。
彼は木工旋盤での工作を主に活動としている為、漆室の管理はしいていない。
また、漆塗りの作業に埃は厳禁のため彼がこの部室を訪れるのは稀である。
よって現在、僕が部室で独りである事もまた必然なのだ。
「せんぱいの可愛い後輩ちゃんですよ〜♪」
少し自分語りが過ぎてしまった感がある。
本来職人とは裏方であり『工芸』において主役となるのは『物』であり、またその『所有者』である。
『工芸』と一言で言っても美術工芸、伝統工芸、生活工芸などなどその内容は多岐にわたるし、その境界も近年では曖昧になっているかもしれない。
しかし僕が憧れる職人としての『工芸』とは『所有者』の自己実現となる『物』を作るための技術を提供する者の事を示す。
つまり職人とは裏方であり匿名でなければならない。名前は必要ないのだ。
「
「······うるさい」
一瞥すればこの後輩、艶のある唇を尖らせ薄紅の頬を膨らましている。その両方の色艶が薄く化粧をしているのか、女子とは元々そういうものなのか僕にはよくわからない。
女子の顔を真正面から観察したことがないからな。
緊張して顔が見られなかった訳ではない。
これまで必要がなかったのだ。信じてくれ。
「せんぱい、全然返事してくれないんだもん」
まだ何か言いたげな後輩から目を戻し、漆室の湿度計を昼食のソーセージパンを咥えながらチェックする。
5月末とはいえ、この地方ではまだ朝晩気温も低いし空気も乾燥している。
「せんぱい、またそのパンですかぁ?」
「悪いか?」
「可愛い後輩ちゃんがお弁当作ってあげますよ♪」
「······不要だ。これで十分」
職人としては食事は手早く済ませたいからな、と思いながらパンを食べているとむーっ、と何やら愛らしい唸り声を上げながら後輩がすり寄ってくる気配がする。
「せんぱいは相変わらず低温度で低湿度ですね。そんなんじゃ·····」
湿度計を覗き込む背後から後輩の顔が僕の顔に近づく。
「漆······乾きませんよ?」
「〜〜〜!!!」
後輩の囁やきと吐息は熱く湿っていて、僕の耳をくすぐる。
しかし、職人たるもの顔色ひとつ変えないっ。
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