私は本当のあなたを知っている

アメツキ

私は本当のあなたを知っている

 私の目の前にひとりの女が立っている。

 中肉中背、年の頃は四十をすぎた頃か。洗い晒しの髪は油を失ったのかパサついて、艶やかとは言えない。肌は日焼けし、年相応のシワが目尻に浮いている。

 どこにでもいるような普通の女だった。


「アテナ」

「アイギス持つゼウスの姫君」


 誰かに呼びかけているようだ。

 女は吹き付ける風に縮こまり、自らを抱くようにして耐えている。


「忘れないで」


 黒々とした目から涙がこぼれ落ちた。

 泣いている。苦しむように顔を歪め、どうして泣くのだ。私の名を呼び、私に祈るのであれば供物を捧げ、喜びとともに祈るべきだ。


「忘れないでください、    」


 女が何か言っている。強い風が吹いたように、ノイズがかかったように言葉が聞こえなくなった。

 彼女が最後に何を言ったのか、それだけが聞き取れない。



 ***



 不死の神とて夢は見る。


 私たちは同じ夢を繰り返し見ている。人が幾度もそれを語るからだ。

 人が私たちに寄せて語り継ぐ夢想こそが神話となり、人がまたそれを語り継いで、いつの世にも神を形作る。人が私たちについて語ることをやめたとき、私たちはいなくなるのだろう。でも今のところ、そんな未来はしばらく訪れそうにない。あるいは語り継ぐ人類自体が滅び去るその時まで、私たちは在り続けるのかもしれない。


 ほら、今も。心躍る! またあの夢が始まるのだ。


 懐かしい乾いた空気に匂いを嗅いで私は目を開けた。


 ごうごうと吹き荒ぶ風の中、平原に立つ数多の勇士たちが青銅の鎧をきらめかせている。

 目の前には偉大なる城塞と聖都イリオス。この度の戦こそはあの聖都を陥落せしめんと、ダナオイの男たちは戦車を走らせ向かって行く。迎え撃つ城壁からアルテミスの加護を受けた矢が降り注ぎ、勇士たちの青銅の物の具を貫いていった。

 楯ごと胸を貫かれた勇士がひとり、膝からくずおれ、ものみなを養う大地へと伏して倒れる。次々と倒れ行く戦友たちの姿にひるみ歩を止めようとする勇士たちを見て、私は彼らの大将に語り掛けた。


「お前の言葉で彼らを奮い立たせよ!」


 女神からの激励を受ければ将の瞳が燃える。勇士たちの将は彼らを駆り立てんと隊列の間を走り回った。勇士たちを叱咤し、煽り立て、敵へと向かわせていく。ダナオイの男たちが次々と討ち取られながらもまた、相手方を討ち取っていく。

 その混戦の勢い、味方する勇士たちの凄まじさと勇猛さに感心し、私の口元には知らぬ間に笑みが浮かんでいた。


 これこそが私だ。私には勇敢なる英雄たちこそふさわしい。彼らに味方し、励まし、戦いの中で勝ち抜かせ栄誉を与える。知恵と戦略こそが私の本質である。


『     よ』


 ふと誰かが私の後ろ髪を引いたような気がした。


『  ニア』


 それと同時に何者かの呼び声が聞こえる。戦場の喧騒が聴かせる幻聴か。

 無視してしまえばいい瑣末ごとのはずが、なぜだか私の心はかき乱されていく。

 違う、この声は聞いてはいけない。


『ポ  ア、お答えください、我らが    』


 うるさい。


『お忘れになったのですか。  ニアよ』

「煩わしい! うせろ!」


 縋り付いてくる声を振り払うよう、空を腕ではらう。

 応えるように戦場が波打ち、一陣の風が走った。勇士たちがまたしても神の啓示かと恐れ慄いている。ええい、鬱陶しい。私は私の勇士らを、栄誉と敵からの戦利品と共に国に帰してやらねばならぬのだ。


『  …ア』

『    よ。お答えください』


 それでも声が止まない。一つだった呼び声が幾重にも重なり合い反響する。


『あなたの ではないですか』


 知らぬ誰かの腕が私の上衣に触れた。


「神を惑わそうとは畏れを知らぬにも程がある。貴様らの戯言を聞いている暇はない!」

『なんと……おいたわしい。アテナ、アテナイエ、いいえ    』


 うるさい、うるさい。

 何かを忘れている気がする。見て見ぬふりをしている気がする。しかし私はそんなことに気づきたくないのだ。今がこうして上手く行っているのだから。

 見下ろせば選ばれし勇士たちがそこで戦っている。皆が私を求め、私の加護を祈る。

 そうだ彼らが「人」だ。この時代に語られる「人間」なのだ。彼らが、「人」が皆求める、「私」がこうして戦場に共に在る。だからいいではないか。「それ以外のもの」など思い出す必要はない。


『    』


 吹き荒ぶ風の音が私に語りかける声を消し、邪魔をする。

 そうだ、お前たちの声など聞く必要はない。だからもう放っておいてくれ。不要なのだ、私には。


『    』


 要らないものだから失われた。お前たちが残せるものなどこの世界にはなかった。許されていなかった。ならばその声に応えて何になるというのか!


「失われたものに応える神はない!」


 応えてしまえば語られなくなる。存在できなくなる。そんな神はやがて世界から切り捨てられる。我らが勇士たちを見よ。神話を紡ぐのはいつだってこのような選ばれた者たちだ。


「だから不要だ! どけ! うせろ!」


 本当の私など。


「いらない!」


 私の本当の名など。


「……本当の名?」


 ふと脳裏を光が駆け巡ったかのように感じて顔を上げた。


『ポトニア』


 呼ばれた名に、は、と目を見開く。

 次の瞬間、そこにある戦場は後方へと押し流され、全てが光の洪水に飲み込まれていった。



 ***



 女たちが眠っている。

 見下ろした先には、私の膝。膝から流れ光り輝いているのは私の肌着だ。

 そこに色とりどりの髪を散らした女たちが懐き、眠っている。


「ここは……」


 見回せばそこは神殿だった。

 大理石はその物本来の色を剥き出しにし、床には野の花が茂っている。ぎゅ、と踏みつけると強い香りを放つ、硬い下草たちが宿す花々だ。石灰質の大地にも強く根付く植物たちは、大理石の上にも生えるのだろうか。クリーム色の柱が立ち並ぶ空間の背景に、青く空が流れている。

 ふと誰かが、私の後ろに歩み寄ってきた気配がした。


「私を呼んだのはあなたか」


 振り返る。

 私の目の前にはひとりの女性が立っていた。

 中肉中背、年の頃は四十をすぎた頃か。洗い晒しの髪は油を失ったのかパサついて、艶やかとは言えない。肌は日焼けし、年相応のシワが目尻に浮いている。

 どこにでもいるような普通の女性だった。


「私がお呼びしました。……思い出してくださいましたか」

「ああ、ようやく。……ごめんなさい、今回は中々思い出せなかった」


 目の前の女性が目を細める。まるで娘でも見るような眼差しだった。思わずむず痒い気持ちになる。そんな眼差しを向けられたことは、終ぞ父からもなかったものだ。

……いや、本当は父からもそう見つめられたことがあったのかもしれない。私が忘れてしまっただけで。


「ポトニア」


 女性が『その名前』を呼ぶ。

 幾久しく呼ばれていない、懐かしい名前だった。

 呼んでくれる人がいなければ、私は自分の名前だって忘れてしまう。


「ふふ。私のその名は、もう世には知られてないらしい」


 自嘲して笑う。

 いつの世も、今の世でさえ。私に求められているのは、英雄の叙事詩を助ける知恵と戦略の女神であること。男まさりで同じゼウスの子、男神たるアレスにも勝る力と知恵のある女神。選ばれた英雄たる男たちに味方し、そして彼らと共に戦場を駆けることができるもの。

「母」でもなく、「妻」でもなく、「女」でもない。性を捨て、女の性ゆえに生じる営みを捨てる。その代償を以て初めて、私はオリュンポスにおいて力を得ることが許されるのだ。

 代償は私だけに課せられたものではない。ヘラも、アルテミスも、アフロディテも、ヘスティア、デメテルも。


「また私は選んでいたのだな」


 そう、私たちは選ばなくてはならない。

「女」を捨て、「母」の権能を捨て、「戦士」となるか。「母」「妻」であるために「女」と対立するか。あるいは「女」であるために、「母」の権能を捨てるか。

 我が父もアポロンも達も全てを持ち合わせているのに。私たちはそれら全てを内包することはできない。許されておらず、永遠に分け隔てられている。


「いつの日か戻れる日が来るのだろうか」


 神とて絶望する時もある。世界はまだ、私たちをバラバラに引き裂こうとしている。私の独白に女性が答えた。


「いいえポトニア。あなたを求める声はいつだって世にあります」


 原初、私たちは一つだった。

 女であり、妻であり、母であり、そして戦うものだった。

 我らは皆、全てを持っていた。全てを内包し、それぞれの側面でもって人々の呼び声に応えた。ポトニアとは全てを持っていた時代の私の名前だった。


「トロイエ攻めの中で私の息子は死にました」


 顔を上げる。目の前の女は母親だった。黒々とした瞳が遥かなる記憶を呼び起こさせる。


「思い出した。あなたも息子もまた、アイアス。母を想っていた優しい子だ。アイアスは隠れて泣いていたのだ……」


 勇気を見せ、戦場で手柄を立てなければ一人前の男になれない。だからアイアスという一人の青年はその日、夜に紛れて泣いていた。戦が始まるのは恐ろしい、夜が明けるのが恐ろしいと、母のもとに帰りたいと。

 月明かりの下でひっそりと、私に祈っていたあのアイアス。


「彼の捧げ物は珍しくも、月明かりの下で輝く見事な織りの帯であったな」

「ええそうでしょう、私がしっかり教えましたもの」


 アイアスの母たる女、ヘレニアは得意げに笑う。

 彼は母の手伝いをよくする子で、機織りをこっそり手伝うのが好きなのだという。男なのに機織りなどと、誰にも言えないでいた。


「私も、あの子も。覚えてくださっているのはもうあなただけです」

「……ヘレニア。それでも私はあの子のことを守ってあげられなかった。私は」


 全てのものの願いに応えることができない。全能であった記憶を抱きながら、現在の私はそうではない。ずっとその矛盾をはらんでいる。ずっと私には疑問がある。


「ポトニアという名が全能であった時代。私は全てを救えていたのだろうか?」


 ポトニアがバラバラになってアテナになる前だったら、私はアイアスたちを、彼らを待つ者たちのもとに帰してあげられたのだろうか。

 わからないのだ。

 遠い昔のことが真実かどうかは確かめられぬ。私たちは全能であったはずだと願いを求めているだけで、本当は初めから、力なきものだったのかもしれない……。


「ポトニア!!」


 横面を叩かれたように、その声に引き戻される。こちらを見るヘレニアの瞳が燃えている。ヘレニアが怒りの中で口を開く。


「ポトニア。今もまた同じことが起こっています。起こり続けている。私の声が聞こえたのでしょう」

「ええ。トロイエ攻めの熱気に呑まれていても、あなたの声は、どうしても無視することができなかった……」

「願いがそうさせた。母親たちの、あるいは妻たち、姉妹たち、娘たちの嘆きがあなたに私の声を届かせた」


 世界は繰り返している。成熟と破壊、そして創造を繰り返している。

 人の子は永遠に生と死のサイクルを繰り返す。それが穏やかなものであれと願うのは、人の子の望みと欲望から生まれた私には過ぎた願いであろうか。


「行ってくださいポトニア・アテナイエ。あなたが見て、あなたが、」

「今の時代に私の権能はもはやない。何を変えることができるのか……」

「いいえ! あなただけができることがあります」


 瞬間、ヘレニアの姿にノイズが走る。また私が、今世求められる私に引き戻されていくのだ。美しい神殿と花園にざあざあと風と砂が吹き込んでくる。


「ヘレニア、風がうるさくて、よく聞こえない……!」


 負けじとヘレニアが叫ぶ。


「見て、見届けてください! そしてどうか忘れないで」


 彼女の声を聞き逃さんと耳をそば立て、霞んでいく景色に目を凝らす。ヘレニアの口元は笑っているように見えた。


「忘れないでください。私や私の息子は確かに喜び、また苦しんでいたことを」

「私たちが居たことを忘れないで」


 雑音をこえて一瞬、クリアに彼女の声が脳裏に響いてくる。ふと風が吹くのをやめた。

 目の前がやわらかに光でくらんでいく。

 時が止まったかのような白い光のぬるま湯の中、膝に懐いていた女たちがいつの間に起き出したのを気配で感じる。


「忘れないでポトニア」

「あなただけはどうか忘れないで」


 白い視界の向こう、彼らを迎えに来た友や家族がやってくる。

 彼らが光の渦の中にかえっていく。



 ***



 私は再び目を開ける。

 私の目の前にはいくつもの世界が重なり映る。やまぬ戦禍の中で死の運命に飲み込まれていく者たち。かと思えば争いのない日常で、飽食の世を生きるものたち。

 対極の世界の中でみなが苦しみを抱き、喜びを探す。


「同じだヘレニア。何も変わらない」


 私はその全てを見つめて記憶する。私こそが覚えている。あなたの苦しみと、喜びと、生と死を。

 それこそが私の本当の役割なのである。





【後書き】


藤村シシン先生のギリシャ神話講座を受講し、


・神話で語られている女神たちのあり方は、当時のエリート男性層によってフレーミングされて語られているものである

・当時の女神や女性を語る物には、女性によって書かれた資料が全くない


という学びを得ました。


また、以下は可能性の話ではありますが


・線文字Bを読み解くと、アテナには「アテナポトニア (アテネにいる女主人)」というかつて呼ばれ方をしていた

・この名から、ポトニア という本体の女神に複数の属性を加えて名付けることで、一女神がたくさんの側面を持っている状態になっていたと考えられる

・その一側面が「アテネにいるポトニア」であり、1人の偉大な女神の側面がアテナであったと考えられる。

ex: イリアスの中でもポトニア・アテナイエ(アテネにいる女主人)と呼ばれている


という学びを得て、非常にテンションが上がりました。

ゼウスやアポロンのように、1人で全てを持っている全能の女神がいたら格好良すぎる。


そこから、


・かつて全能であったアテナは今の自分をどう思うのだろう?

・英雄のためのアテナが一側面であるのだとすれば、本来のアテナはすべてのものに目を届かせる、生きとしいけるものに寄り添っていてくれる女神だったのではないか


という妄想をまじえて書いてみました。


アテナはもしかしたら今の世で、あなたや私の頑張りを見ていて、ずっと覚えていてくれるのかもしれません。

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