ブレーキ痕
峠を越え、見慣れた市街地へと入った時、紫雨は唐突にそう言った。
「またそれか」
俺は半ば反射的にそう返した。
「何度も言うが、その気持ちは―――」
「私もそうかもって思った」
『父親と重ねているだけ』そう言う前に、紫雨は俺の言葉を遮った。
「私も、アピールを重ねるうちに、晴輝の言っていることが正しいのかもしれないって、そう思うようになった……でも、今日分かったの」
紫雨はいつにもなく真剣なトーンで話し続ける。ちらりと表情を窺うと、声と同じように真剣なものだった。
「今日、晴輝の運転をこの車で感じたけど、お父さんとは全然違かった。どっちが良いとか、そうゆうのは分からないけど、間違いなく晴輝とお父さんは、違う」
紫雨は小さい頃から、おやじさんの運転を助手席で見て来た。きっとこの車の助手席に乗った回数も、俺よりはるかに多いのだろう。だからこそできた、紫雨の決断。
「そして、違うと分かってなお、私は……晴輝のことが好き」
自宅へ着き、車庫へと車をしまう。エンジンを切ったことで、車の中には沈黙が流れる。
その空気間に耐え切れず、俺は明るく振舞う。
「さあついたぞ、早く勉強始めろ」
「逃げないで」
俺が車を降りようと扉に手をかけると、紫雨は俺の服を掴んで引き留めた。
「もう受け流されるのは嫌なの。嫌いなら、それでもいい……だから晴輝、答えて」
真っすぐ俺の目を見つめ、返答を求める紫雨。ここまで来て、返答を避けるようなら、それは男として情けない。紫雨の目は本気だ、きっと、本当に俺のことが好きなのだ。
ならば、その気持ちは受け止めてやらなくちゃならない。
「俺も、紫雨のことは……好きだ。おやじさんと会っていた時から、ずっと紫雨のことは気になっていた」
パアッと表情が明るくなる紫雨。だが、俺が続けた言葉で、その表情は再び強張った。
「でも、今はまだ、それに答えられない」
「どうして? 私は晴輝のことが好き、晴輝も私のことが好き、なら―――」
「おやじさんに申し訳ないんだ」
R34のハンドルを握りしめる。
「今お前と付き合ったら、まるでおやじさんが死んだことに付け込んで、おやじさんが大切にしていたお前を、奪っているようで……」
自分によくしてくれた、おやじさんの顔が脳裏に浮かんでくる。
「おやじさんは……いい人だった。趣味の車に打ち込むと周りが見えなくなるけど、家族を大切にしていて、いつも紫雨の世話を焼いて……紫雨を、幸せにしていたように見えた。だけど、俺はおやじさんと比べて、何もかもが劣っている。何一つとっても、おやじさんには敵わない」
俺の中でおやじさんは偉大な存在だった。まだ18で、一人でこっちに引っ越してきた俺にとって、その背中はとてつもなく大きく見えた。そして、その背中で守られていた紫雨。
「俺はお前を、おやじさんのように、幸せにしてやれる自信がない」
初めて零した本音に、紫雨は少し戸惑っている様に見えた。日ごろ紫雨には、大学生として大人ぶっているため、それとは正反対な姿に、驚いたのだろう。
「だから、最初はなんとかしてお前を離そうとした。だけど……お前はそうやって覚悟を決めて、俺の方を見ている」
俺が話している間、一度たりとも、紫雨は俺から視線を逸らさなかった。
「当たり前でしょ。私は……晴輝のこと、好きなんだから」
だから、俺も覚悟を決めることにした。
「明日……明日俺は、おやじさんと勝負する。もしそれに勝てたら、俺はおやじさんを越えられたと、そう思えるはずだ」
「お父さんと勝負って……」
戸惑いを隠せない紫雨。それもそうだろう、死者と戦うことなど、普通は出来ない。だが、一つだけ方法はある。それを証明するため、俺は鍵車から降り、鍵の入った扉の下にある引き出しを開ける。
「おやじさんは、峠を全力で攻める時、必ず記録を取っていた。車、走った時間帯、天気、タイム……もちろん、このR34での記録もある」
ノートを捲り、R34での記録のページを開く。
「明日、俺はこのタイムを塗り替えることで、おやじさんを越える」
明日の天気は雨、R34で雨の日のタイムは、上り下り合わせて7分15秒。俺は、このタイムを越える。
「わざわざ明日じゃなくても……」
紫雨は、乗り気ではなさそうだ。それもそうだろう、紫雨は雨の日が嫌いなんだから。
「いや、明日だ」
おやじさんを越えられるチャンスは、明日しかないんだ。
♦
翌日、天気は予報通り雨。俺は、スマホのタイマーを7分15秒にセットし、スタートラインに車を置いた。隣には、おやじさんが乗るR34が見えた気がした。
「……ちゃんと帰って来てね」
「分かってる」
紫雨の顔はどこか不安げだ。だがその不安はきっと、タイムがどうという問題ではない。おやじさんは雨の日の全力運転で亡くなった。俺は、おやじさんと同じことをしようとしているのだ。雨の日に、全力で車を走らせようとしている。
一昔前の、命知らずの走り屋たちのような所業を、俺は今、やろうとしている。
窓を閉め、紫雨が車から離れたのを確認すると、改めてハンドルを握り直し、カウントダウン付きタイマーを起動する。GPSで指定した地点に戻ったら、タイマーがストップする優れたアプリだ
エンジンを吹かし、カウントが0になった瞬間、一気に車を前に発進させる。速度はいきなり80を超え、90、100、と順調に速度メータが針を刻んだ。エンジン回転数を知らせるタコメーターを見ながらギアをチェンジし、雨でタイヤが滑ることを考慮に入れて、カーブを曲がる。
下から二つ目の急カーブをクリアする時、バックミラーに、微かに道路のタイヤ痕が見え、同時に、おやじさんのR34が俺のことを追い越していった。
俺だって、車の大学で鍛えたドライビング技術とメカニックの知識がある。絶対に、負けない。俺の強い意志を反映させるように、R34は濡れた地面を蹴り、峠を登って行った。
♦
傘を差しながら、私はちらりとスマホの時計を見る。晴輝が発進してもう3分経った、そろそろ頂上に到着して、Uターンからダウンヒルに突入する頃だろう。
「はぁ……心配」
ダウンヒルはただでさえ速度が乗りすぎてコーナーでオーバーを出しやすい。そこに雨の日の滑りやすさが加われば、車は簡単に奈落へと落ちていく。
私の脳裏には、お父さんと同じように晴輝が、コーナーを曲がり切れずガードレールに衝突。そのまま奈落へと落ちていく姿が浮かんでしまった。
「ダメダメ! 信じるって決めたんだから!」
頭を振って、そんな悪い予感を振り払う。
晴輝とお父さんは違うって、そう分かった。なら、晴輝はお父さんと同じように、いなくなったりはしない。絶対に。
「大丈夫、晴輝は帰って来る。お父さんを越えて、私を迎えに来てくれる」
祈るようにそう呟いた私の耳に、少しづつRB26DETTエンジンの唸り声が聞こえて来る。晴輝が、坂を下っているのだ。
♦
俺は食い入るように、フロントガラスから先の道を見続け、アクセルを踏み続ける。ヒルクライムをクリアした俺は、少しずつアドレナリンが蓄積し、雨の峠だと言う恐怖心が薄れてきていた。
こんなに早く車を走らせたことは人生で初めてだ。心地よいほど速度が乗り、素直に車が曲がってくれる。雨の路面で車体は滑るが、それも含めて、俺は楽しくなってしまっていた。
興奮し、高ぶった俺の脳は、少しずつ冷静な判断力を奪っていく。コーナーに侵入する速度が少しずつ早くなっていく。
このままじゃ不味いと理性は警鐘を鳴らしている。それでも、高ぶった感情を自分一人では押さえつけることなどできない。
だが……。
「っ!」
緩いカーブを抜け、次は左へ曲がるきついコーナーだという時、俺の目には、地面に残るブレーキ痕が飛び込んできた。
反射的にアクセルから足を離し、ブレーキを踏み込む。エンジン回転数が下がるにつれてシフトのギアも下げていき、ハンドルを切る。
車の正面が内側を向いたまま、車体が横滑りしていく。濡れた地面のせいで、重いR34の車体が紙のように軽く流されていく。
「まがれぇ!」
コーナーの出口が見えて来る頃、全力でアクセルを踏み込み、前へ前へと車を進ませる。
雨で滑る地面を必死にタイヤがかき分け、そんなタイヤを回そうとエンジンが咆哮する。
テールランプが、ガードレールギリギリを掠める。ハンドルを一度逆に切って進行方向を安定させた後、正位置に戻し、ギアを上げた。
このコーナーを抜けたら、後は緩いコーナーのみ。もう何も躊躇うことはない。アクセルを踏み込み、走っているのか滑り落ちているのか分からないような勢いで残りの坂を下る。
最後のコーナーを抜けた先、峠のふもとに傘を差す少女が一人、駆け下りるR34を、いや、俺を見つめていた。
ゴールラインを過ぎた時でも、まだ、タイマーの数字は、0になっていなかった。
♦
凄まじい速度でスカイラインが私の前を通り過ぎると、車通りが増える大通り入口手前で、盛大な水しぶきをたてながら旋回し、停止する。
「晴輝!」
見事な姿勢制御に一瞬見とれるが、すぐに我に返り、車へと駆け寄って行く。
エンジンが止まり、車の扉が開く。息が荒く、額から汗が流れる晴輝に、私は傘を差しだす。
「っつ、はぁはぁ……死ぬかと、思った……」
晴輝はそんなことをいいながら、エアコンの位置にストッパーで固定されていたスマホを私に差し出した。
「確認してくれ」
頷いてスマホを受け取る。ここに表示されているタイマーの数字が、マイナスになっていたら、私は……。でも、見なくちゃ何も始まらない。
深呼吸した後、思い切ってスマホを表にする。
「……2.003秒。てことは!」
「超えたぜ……おやじさんのタイムを」
ニッと笑って見せる晴輝。思わず傘を放り出し、そんな晴輝へと抱き着いた。
「うおっと」
少し体制を崩す晴輝だが、しっかりと私のことを受け止めてくれる。
その後、濡れないようにと私を助手席へと乗せ、自身も運転席へ戻った。
「なんとかタイムは越えられたけど……それもこれも、この雨のおかげだな」
ハンドルに手を置き、大きく息を吐いた晴輝はそう零した。
「どうゆうこと? 雨の日って、晴れている日よりも危ないしタイムが出ないって聞いたことがあるけど……」
「だからだよ。おやじさんの晴れのタイムに挑んでたら……多分、俺は勝てなかった」
晴輝の表情から、それが謙遜ではないことが伝わって来る。
「地元で、しかも何回も走り込んでいる峠で出したタイムを、他所からきて、車に乗ってまだ3年しかたってないような俺が、抜ける訳がない。この峠で走る以上、俺がおやじさんに勝る点は一つもないんだ」
「雨は……晴輝にとって利点なの?」
「俺は大学の講義の関係上、年中コースを走ってる。晴れの日も曇りの日も、勿論土砂降りの雨の日だってな」
ハッとした。お父さんは中古車の性能チェックとして峠を走っていたが、雨の日は走りにくいからと言って、あまり走ろうとはしなかった。事故に遭った日も、その車をすぐに買いたいと言う要望があったから、悪天候の中出かけたのだ。
雨の道を走ることに関して、晴輝はお父さんに勝っている。
「そっか……雨が、晴輝を勝たせてくれたんだ」
あれほど嫌いだった雨が、今は天からの恵みのように感じる。
「今日を逃せば、しばらくは晴れの日が続く。それにもうすぐ11月だ。落ち葉が峠に溜まれば、雨の日以上に危険になる」
「だから、今日走りたかったんだね」
どこか誇らしげで、満足げな晴輝の表情。全てをやり切ったような顔をしている。
「満足げなところ悪いんだけどさ……返事、まだ貰ってないんだけど」
私の言葉に、晴輝は思い出したように照れ笑いを浮かべる。
「あ、ああ、そうだったな」
車を走らせることに夢中でちょっと忘れてたな、こいつめ。
コホンと咳払いして、改めて私は晴輝の顔を真っすぐ見つめる。
「晴輝。私は、晴輝のことが大好きです。私と……付き合ってください」
じっと晴輝の瞳を見つめ返答を待つ。晴輝は、私から視線を逸らすことなく、答えてくれた。
「俺も……紫雨のことが好き、だ。こんな俺でよければ……よろしく、お願いします」
不器用な返答に、少し笑いそうになるが。それよりも先に、感極まった私の両目から、雫が零れ落ちた。
「やった……私の永久就職先、見つけられた」
私のその一言の後、車は一度、ギシッと深く沈んだ。
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