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「奈津美、何やってんだ? こんな時間に」

 玄関を開けたお父さんが、ぎょっとしたような顔をしてそう言った。

 友達の家に泊まりにいったはずの娘が、真夜中といっていい時間帯に急に帰ってきたのだから、お父さんが驚くのも無理はなかった。叱られるかなと思ったけれど、お父さんも、後から起きてきたお母さんも「一体何があったの?」と心配してくれて、怒られはしなかった。

「顔が真っ青じゃない。何かあったの?」

 怪訝な顔をしたお母さんにそう訊かれて、わたしはつい泣き出してしまった。


 木田ちゃんを置いてきた。


(ほんものの、あさみさん)

 夢の中でそう言われた瞬間、目の前が真っ暗になった。ふと気づくと、わたしは木田ちゃんの家のリビングのテーブルの前、カーペットの上に横になっていた。

 こんなところで眠っていたのか……と体を起こした。テーブルの上に置きっぱなしだったコーヒーが、天板にこぼれて水たまりみたいな模様を描いている。こぼしたのは夢の中だったはずなのに――と背中が冷たくなった次の瞬間、きいぃ、という小さな音が聞こえた。

 振り向くと、リビングのクローゼットが開いていた。目を離せずにいると、中からゆっくりと木田ちゃんが出てきた。

 よかった、木田ちゃん無事だったんだ……と思った。

「木田ちゃん、そこに隠れて――」

 たんだね、と続けようとしたわたしに向かって、木田ちゃんは笑いかけてきた。木田ちゃんの笑い方じゃない、もっとニタニタした、厭な笑い方だった。

「なぁに、なっちゃぁん」

 間延びした声で、そう言われた。

 様子がおかしくなった後のはーこに、よく似ていた。

 それで怖くなった。どうしようもなく怖くて、今すぐここから逃げなきゃと思った。

 わたしは夢中で木田ちゃんの家を飛び出した。夜道を、必死に自転車を漕いで逃げた。冷たい向かい風が正面から吹き付けてきて、乾いた両目から涙がぼろぼろ流れた。

 木田ちゃんから逃げ出した。ひとりぼっちで置いてきた。

 わたしなんかに何もできるわけないってわかっていたけれど、それでもそれがこうやって現実になってみると、心臓を押しつぶされるような気持ちだった。

(ごめん、木田ちゃん、ごめんね)

 心の中で何度も何度も謝った。

 そうやって、ようやく自分の家に到着した。自転車を停めて涙をふいて、でも玄関先でもう一度泣き出してしまった自分が情けない。何もできないのは仕方がないことだったのかもしれない。でも、それでも情けなくて、悲しかった。


 深夜の帰宅の理由を、正直に説明できるはずもなかった。わたしが言い淀んでいるのを見て、お母さんが「まぁ、木田さん家色々あったからね」と勝手に納得してくれた。

 次の日は体調が悪いと言い張って、一日学校を休んだ。プリントを持ってきてくれた友達に訊くと、木田ちゃんも欠席していたらしい。

 木田ちゃん、どうしてるんだろう。

 気になったけれど、わたしは電話をかけたりしなかった。まして木田ちゃんの家を訪ねてみるなんて、とてもできそうになかった。

 怖かったのだ。

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