40
わたしは隣を見た。一緒にソファに座っていたはずの木田ちゃんの姿がない。テーブルの上に置かれた彼女のマグカップの中身は、ほとんど減っていなかった。
「木田ちゃん?」
わたしは慌てて辺りを見た。
廊下に続くドアは閉まっている。ソファの裏を覗き込んだけれど、そこには誰もいない。クローゼットの方に視線を動かして、思わず飛び上がりそうになった。
木田ちゃんがいた。観音開きの扉を開け、その影から体を右半分だけ出して、わたしをじっと見つめている。ぼんやりした瞳と目が合った。
「木田ちゃん、眠ってるの……?」
立ち上がろうとした。でも上手くいかない。どうしてかわからないけれど、足に力が入らなかった。
「なっちゃん」
木田ちゃんが、やけに平べったい声でそう言った。
「なっちゃんも眠ってるんだよ。今ね、私の夢となっちゃんの夢が混ざってる」
「木田ちゃん? どういうこと?」
わたしは一生懸命立ち上がろうとした。ローテーブルに手をついたけれど、力が入らなかった。
「夢の中だからね。そういうのってあんまり上手くいかないよね。私も夢の中で走れないとか、けっこうあるし」
静かで、機械みたいに無機質な声で、木田ちゃんはそう答えた。
「なっちゃんがどうして眠ってるのか、どうして夢が混ざっちゃったのか、私はよく知らない。でもきっと、一緒にあさみさんを呼び出してたからじゃないかな。そういうところに原因とか、共通点があるような気がするんだよね。つまりもうなっちゃんは巻き込まれてるってことでさ、それでさ、なんでそんなことが言えるのかって、たぶん、開けてしまったからじゃないかな」
「開けてしまったって、なに……?」
「私が、ドアを」
木田ちゃんがロボットみたいな一本調子でそう言った。
「あれはドアを自分で開けてくるけど、一番最後は相手に開けてもらわないといけないだって。そうしないと夢は覚めちゃうんだって。そりゃ、自分で開けるのはすごく怖いよ。すごく怖かったけれど、一度開けてしまったら楽だよ。こんなこと、誰も説明してくれなかったね。不公平だよね」
「木田ちゃん、何言ってるの? ほんとさ……」
「なっちゃん。いっそ開けちゃったら楽なんだよ。なっちゃん。扉をさ」
わたしはぐらぐらする足元を踏ん張って、ようやく立ち上がった。
木田ちゃんは変わらず、クローゼットの扉の影から右半身だけを出してわたしを見ている。ふいにその姿が怖くなった。わたしに見えない左半身は、実は本当にないんじゃないか。木田ちゃんがこちらにふらりと出てきたら、右半身だけの惨たらしい姿を見てしまうんじゃないか――。
急に立ち上がる気力がなくなって、わたしはその場にべたんと座り込んでしまう。テーブルの上のマグカップがカタンと揺れて、コーヒーが跳ねる。
「なっちゃん」
木田ちゃんの声がする。
「なっちゃんもさ、開けちゃうといいよ。はーこもクミさんも、思い切って開けちゃえばいいよって言ってたし、怖くてもさ、我慢して開けるといいよ」
わたしは慌てて耳をふさいだ。でも木田ちゃんの声は、全然変わらない大きさと鮮明さで、
「そのうち、なっちゃんのところに行くからね」
はっきりと聞こえた。
「何が来るの」
尋ねた自分の声が震えている。耳元で囁くような声がそれに答えた。
「ほんものの、あさみさん」
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