30
「木田ちゃん! なっちゃん!」
他のクラスメイトたちには目もくれず、はーこは一直線にこっちに歩いてくる。
「あーっ、よかったぁ。ふたりに会えて嬉しいよぉ。ふたりだったらどっちでもいいんだぁ」
そんなことを言いながら、はーこはわたしたちの前に立った。
わたしは椅子に座ったまま、彼女を見上げた。ちょっと見たらわかる。「最近のはーこ」だ。「前のはーこ」じゃない。気味の悪いニタニタ笑いを浮かべて、髪はぼさぼさ、制服もたぶんアイロンなんかかけてない。
やっぱり木田ちゃんくらい一緒にいないと、「前のはーこ」には会えないのかもしれない。それでも、今その表情に「前のはーこ」っぽさがないかとか、喋り方が急に変わらないかとか、そんなことを期待せずにはいられなかった。
(はーこがおかしくなったのはきっと一時的なことで、それは「ダメだ」って言われたのにあさみさんを呼び出したから。だからよくないことが起こったけど、それはたくまで一時的、しばらくの間罰が与えられただけ。きっとそうだ。クミさんは死んじゃったけど、それはきっとあさみさんを呼び始めたからで、はーこはそうじゃない。だから大丈夫だ。大丈夫。前のはーこはちゃんと戻ってくる)
心の中で、こっそりと自分を励ました。
「なーに、なっちゃん。何考えてるのぉ?」
はーこはにやにや笑っている。両手を背中の方に回して、座っているわたしを見下ろしながら、なにか得体の知れないことを考えているような表情をしている。
「何って、えっと……」
何を考えてるって? どう言ったらいいんだろう。こんなふうに尋ねられると、何て答えたらいいのかわからなかった。はーこは相変わらずニタニタ笑いながら、黙っているわたしを見下ろして「ふーん」と言った。
「なんかわかんないけどぉ、急ぎじゃないってことでいいかなぁあ? じゃあ、あたしの頼みごとをぉ、先にしてもらっていいぃ?」
わたしは咄嗟に「いいけど」と言いかけた。それを木田ちゃんが「ちょっと」と止めた。
「はーこ、今じゃなきゃだめ? 他のところに行こうよ」
「なんでぇ?」はーこが尋ね返す。「今でいいじゃん。頼み事、ちょっとしたことだからさぁ」
そのときわたしもようやくピンときた。クミさんははーこに頼み事をした。そしてどうなった? はーこの部屋のクローゼットと違って教室には何人も人が残っているけど、こういう場合どうなる? 何が起こる?
「ちょっとしたことだからさぁ、いいじゃん」
「いいじゃんって……」
「いいじゃん、見ててぇ」
そのとき、教室の外からだれかの悲鳴が聞こえた。
廊下が騒然となった。みんなが教室を出て行く。わたしも思わず立ち上がった。そのとき、
「見ててってばぁ」
すぐ耳元で、はーこの声がそう言った。
はーこが、背中に回していた両手を前に出す。右手に握られた、黄色くて大きなカッターナイフが目に入る。はーこはカッターの刃を長く出すと、少しのためらいもなくそれをぴたりと自分の首元に当て、左手を右手の上から添えた。
「ちゃんと見てなきゃ駄目だからぁ!」
はーこはそう言って、ネジが外れたように笑い出した。カッターの刃が引かれる。その瞬間、わたしはとっさに目を閉じた。木田ちゃんがものすごい叫び声をあげた。
はーこの笑い声が、ゴボゴボといううがいみたいな音の中に消えた。顔に生暖かいものがかかって、鉄錆みたいな匂いが辺り一面に立ち込める。
わたしは気が遠くなった。
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