幕間
小早川まりあ 01
小早川まりあは現在中学一年生。六月の誕生日が来れば十三歳になる。
志朗貞明の事務所からほど近いアパートで、父親と二人暮らしをしている。もう少し防犯がしっかりしたところに引っ越した方がいいだろうか、などと父親は言うけれど、まりあにはあまりその気がない。登下校はスクールバス、学校が終わってから父親が帰ってくるまでの時間を、大抵は志朗の事務所で過ごす。応接室でお客さんに会わせてもらったり、事務所に引っ込んで課題をしたりしながら、スマートフォンに連絡が入るのを待つ。
二年前の秋から、大抵こうやって毎日を過ごしている。
二年前の夏、自分の世界は大きく変わった。
まりあはそう思っている。あのときまで「よみご」なんて名前すら知らなかったし、将来のことがこんなに早く決まってしまうなんて考えてもみなかった。もっとのんびり大人になって、なりたい職業なんかもそのうち何となく決まるんだろう、と思っていた。それが一気にひっくり返った。
母親がいなくなって、親友や住みなれた町とも離れなければならなくなって、とにかく色んな変化についていくのが精いっぱいだった。けれど、だからと言って不幸になったとは思っていない。
(幸二さんて人、変わってるな)
加賀美幸二について、彼女はそう思っている。
(小さい頃から乗っかられやすい体質だってわかってるなら、伸ばせばいいのに。しかも、お母さんがお師匠さんになってくれそうなのに)
少なくとも、まりあはそう思う。わかりやすい適性があるのだから、それを育てないのはもったいない。とはいえ、そんなに単純なものではないのかもしれない。幸二本人にしてみれば、それはとても難しいことだったり、不快なことなのかもしれない。
だからあれこれ口に出しては言わないけれど、とにかく(変わってるな)という気持ちは持っている。彼の禍々しさの正体がわかった今は、悪い人ではない、とも思う。
「目が見えなくなる前に通ってた小学校でも、タブレットは一人一台でしたよ」
「そうなの? デジタルネイティブ世代だなぁ……」
幸二の様子が一旦は落ち着き、志朗の事務所で雑談を交わしていると、ブゥンとスマートフォンが振動する音が聞こえた。たぶん黒木のスマートフォンだ、とまりあは聞き分けた。
振動のパターンからして電話だろうが、黒木はなかなかそれをとらない。彼にしては珍しいことだ。
「もしかしてお師匠さんですか?」
そう尋ねる自分の声は、思った以上に不安の色が濃い。
「いや、違う人……ちょ、ちょっとすみません」
黒木がそう言って立ち上がり、リビングを出て行く。廊下に続くドアが閉まる音、さらに応接室のドアを開閉する音が続いた。
(聞かれたらまずい電話かなぁ)
まりあはそう察する。そのとき、
「……さっきのこわい人、お父さん……?」
と声がした。女の声だ。例によって、幸二が肉体の主導権を奪われている。
「幽霊と話すな」というのが、志朗の基本方針だ。だからまりあもそれに従っている。でも、この時ばかりは不意を突かれたのと、聞かれた内容が可笑しかったので、つい「ふっ」と笑ってしまった。
「お父さんじゃないの?」
たたみかけられるのが辛い。お父さんでは、ない。
また笑ってしまわないように、まりあは下唇を噛んだ。幸二の視線がこちらに向いているのを感じる。幸二というよりは、彼に乗っかっているものがまりあを見ているのだ。彼女が怖がっている黒木が部屋を出ていったから、少し調子にのっているのかもしれない。とにかく、無視しつつも様子を見ようと決めた。
幽霊はなおも話しかけてくる。
「かなしい顔してない……?」
していない。笑うのを我慢しているだけだ。
「お父さんいないの? お母さんは? なんでこんなところにいるの? こわくないの?」
こわくないよと言ってやりたいが、我慢する。幽霊の問いかけに応えるのはよくない。
「学校は? 通ってないの? お友だちは?」
学校は今日特別に休んだだけで、ふだんは通ってるよ――と、これも言いたくなるが、言わない。それにしても、ずいぶん聞きたがりの霊だ。どうしてそんなにこちらに興味を持つのか。
「どうしてこんなところにいるの? こんな小さい子がなんで? わたしの話聞こえる? もしかして目が見えないの?」
幸二が――というよりは幽霊が、こちらに近づいてくる音がする。まりあは少し警戒を強める。
無視だ。彼女は改めて自分に言い聞かせる。とはいえその決意があと数十秒後には破られることを、小早川まりあはまだ知らない。
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