19

 シロさんは私の方に体をひねり、巻物は出さずに閉じたままの両目をこちらに向け、「ふーん」と何かに感心したように言う。なんだか私をからかっているように見えて、またひどく苛ついた。私の右手がテーブルの上のグラスに伸びかける。そのとき、

「動くな」

 と、シロさんが言った。

 途端に私の体ががくんと重くなった。急に荷物を背中に載せられたみたいで、思わずテーブルの上に突っ伏しそうになってしまう。

「動くな。動かない。そう、そのまま。動くな」

 シロさんはぶつぶつ呟きながら左腕を伸ばしてくる。小指に巻いたガーゼには血が滲み、薬指の先は紫色に変色している。まだ無傷の人差し指と中指が私の肩に触れる。そのとき、静電気のようなピリッという痛みが走った。

 シロさんはまるで服についているゴミを取るように、私の肩から何かをつまむような仕草をする。左手の親指と人差し指、中指の三本で、肩にくっついた目に見えない何かを捕まえているみたいだ。

 取ってはその辺に捨て、また取ってはその辺に捨て――を何度か繰り返されるうち、いつの間にか肩が軽くなっていた。シロさんは「もういいかな、はい」と確認するように言うと、私の肩をトントンと叩いた。

「神谷さん、ちゃんと軽くなりました?」

「は? ……あ、はい」

「ははは、不思議そうな顔してますね」

 シロさんは楽しそうに笑った。その顔が全然不快に見えないことに私は気づき、そして驚いた。

 さっきまで彼の、それこそ一挙手一投足に苛立っていた自分は何だったんだろう? どうしてあんな風に感じていたのか、私自身にももうわからなかった。

「ボクねぇ、普段こういう仕事するんですよ。厄払いとでも言うかなぁ。とにかく厄みたいなものはその辺に転がってるし、それなりの場所や人がいれば集まってもくるんです。神谷さんは今、よくない変なものをしょってるから、そういう厄みたいなものが溜まりやすい。で、変な影響を受けちゃうわけです」

「じゃあ……今のでその、私にくっついてた『厄みたいなもの』を取っちゃったってことですか?」

「そういうことです。今気分いいでしょ?」

「そう……ですね。はぁ……」

 実際それは私にとってかなり劇的な変化だったので、どうリアクションをとったらいいのか逆にわからなかった。とはいえ、あのおかしな精神状態があれ以上続かなくてよかったと思う。もしもあの状態が長く続いていたら、私は何をしでかしていただろう?

「シロさん、あの、私いつ頃から変でした?」

「ここで女の子たちが話し始めた頃から急に加速しとったけど、でもその前から変でしたよ。さっき神谷さんと合流したとき、神谷さん、ボクらが近づいてることに全然気づいてなかったでしょ? ボク、女の子たちと喋りながら歩いてたから、普通だったら気づかれたと思うんですよね」

「そうだったんですか? 全然覚えがないんですけど」

「ああいうときって、周りに対して注意がおろそかになったりするんですよ。まぁ、人によりけりですが」

「あの……ありがとうございました。あと、ごめんなさい。私、態度かなり悪かったですよね」

 悪かったはずだ。不機嫌どころか、敵意がむき出しになっていただろう。落ち着いてみると恥ずかしい。

「いや、気にしないでください」

 そう言ってシロさんは笑った。「むしろ神谷さんは制御効いてる方ですよ。うちの事務所におったら、もっとまずい状態のお客さんがいらっしゃるけぇ。だから黒木くんみたいなでっかい強面がいると助かるし、あと基本的に熱いお茶とかコーヒーは出さないことにしとるんです。かけられたら危ないんで。あははは」

 そんな笑えないですよ、と返そうとした言葉が、喉の途中で引っ掛かった。ばきんというような音がして、シロさんの左手の中指の爪がひとりでに剥がれた。

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