10
(かみやせんぱい?)
危うくまた聞き返しそうになって、黒木は口の中の肉を噛んだ。
幸二はさっきまでの人がよさそうな笑顔がまるで嘘だったかのように、顔ざめて不安げな表情に変わっている。かっと開いた目がゆっくりと横を向き、黒木にぴたりと焦点が合う。
「ひっ」
高い声で叫んで、幸二が――というか彼に「乗っかっている」ものが後ずさった。がくりと姿勢が崩れてその場に尻もちをつく。と、もう次に顔を上げたときには幸二の表情に戻っていた。
「あー、やっぱ話題に出しちゃダメですね! やめましょうやめましょう」
幸二はずり落ちた眼鏡を直しながらそう言う。どうもその幽霊のことを話すのはよくないらしい。やはり「幽霊にかまうな」ということなのだろうが、正直今の黒木はかまいたくて仕方がない。
(かみやせんぱいって、まさか神谷さんに関係ある人か?)
でも、口には出せなかった。ついさっきハンドサインで(黙っていろ)と言われたばかりだ。その直後に話題に出すほどの蛮勇は持ち合わせていない。
「……まりあさん寝ちゃったんで、向こうの部屋に行きますか」
それくらいの気を利かせるのが精いっぱいである。
黒木は幸二を伴って、1004号室のリビングダイニングに移動した。バタバタしていたが時計はまだ午前中、この長くなりそうな一日をどうやり過ごすのか、考えなくてはならない。とりあえずダイニングチェアをふたつ引き、水出しの緑茶をグラス二つに注いでテーブルに置いた。
のどかである。ついさっき幸二を背負って駅前から戻ってきた、あのバタバタが嘘のようだ。つい大きなため息をついてしまう。幸二もほーっと長い息を吐き、
「たびたびお騒がせしてすみません」
と頭を下げた。
「いや、お気になさらないでください……」
「いやいや、家庭内の躾みたいなのに巻き込んじゃって……よくないですよね、こういうの。大体母は僕に期待しすぎだと思うんですよ……何でかって、自分の子供が無才なわけないだろって根拠のない自信が根拠なんですけど」
「はぁ」
「僕の『乗っかられる』体質も、それはそれで才能だなんて言うんですよ。まぁ、役に立たなくはないんじゃないですかね? 実際憑依に特化したような人もいますし……でも僕はただの無才です」
幸二はもう一度ため息をついた。「心底疲れたし、うんざりだよ」とでも言いたそうな表情を顔に浮かべていた。
なるほど今のままでは、幸二の乗っかられる体質は不便だろう。でも、それを改善させた先にどんな人生があるのか――少なくとも幸二は、そこに希望を抱いているようには見えない。黒木はどんな顔をしていたらいいのかわからなくなる。
ふと会話が途切れた。気まずい。
「――そういえば乗っかられてる間って、幸二さんはどうなってるんですか?」
黒木はそう尋ねてみた。あの女の話題でなければいいだろう。それにもしかしたら、いずれ自分も何かに乗っかられることがあるかもしれない。その時どうやって対処すればいいのだろう? 塩か?
「うーん、なんか頭の中に小部屋みたいなものができて、その中に閉じ込められちゃう感じですかねぇ」
幸二は首をひねって答える。「そこで、何か外に出られるきっかけができるまで黙って体育座りしてる――みたいな。で、さっきみたいにちょっと動けるタイミングがきたら、塩でうがいしたり、あと爪切って燃やしたりするんです。そしたら取れたりするんですけどねぇ」
今はちょっときついな、と言ってテーブル越しに見せてくる幸二の手は、言われてみれば爪がやけに短くて小さい。
「乗っかられたら爪切って燃やして――って小さい頃からやってたら、爪がこんなに小さくなっちゃったんですよ。今日はちょっと、切るところが足りないかな」
そう言うと、幸二は両手をひらひらと動かして、力なく笑った。
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