12
素っ頓狂な声をあげたのは幸二だった。
「えっ、まりあさん、どうした? なに?」
慌てたような声が続く。黒木がスマホの画面から顔を上げると、ブルーシートの近くで前かがみになった幸二と、その前に立っているまりあが見えた。
「どうしました?」
黒木が声をかけると、幸二が不自然な姿勢で固まったまま、
「まりあさんが『ちょっとないしょ話いいですか?』って言うんで、屈んだら、その……ちょっと黒木さん、彼女止めてもらえませんか?」
と、困ったような表情で言った。
まりあは幸二のシャツの胸ポケットに指を入れている。黒木が見ていないほんの一瞬にそうなったらしいから、まるで目が見えているみたいに迷わず差し込んだのだろう――黒木はその瞬間、志朗の「まりちゃんを止めないで」というメッセージを思い出した。まりあに何かが「見えた」というのなら、それはきっとよみごの範疇のものだ。
(だってあの人、神社の人なのになんか禍々しいですもん)
まりあが言っていたことを思い出す。彼女には今、そういうものが見えているのだろうか。
「あの〜まりあさん、ほんとにどうしたの?」
幸二は、まりあの突然の蛮行にただただ戸惑っているように見える。「なんかわかんないけど、とりあえず指抜いてもらっていいかな?」
そのとき、その言葉に応えるように、まりあが指先をポケットから抜いた。
黒木は息を飲んだ。まりあの指に続くようにして、黒く長いものがずるずると幸二のポケットから出てくる。
黒髪だ。
「ゔぅ」
黒く細い束を摘んだまま、まりあは潰れた蛙のような声で呻いた。幸二は「信じられない」とでもいうような顔で、自分の胸ポケットから引きずり出されたものを呆然と見つめていたが、ふいに弾かれたように叫んだ。
「ちょっ! やばいって! 戻して!」
まりあは口元を押さえて青い顔をしていたが、幸二の言葉には従わず、そのままずるりと黒髪を引き出した。毛糸ほどの太さで、そして長い。仮に平均的な身長の女性の頭皮から生えていたものだとすれば、毛先は太腿あたりまで届いていたのではないだろうか。
まりあは黒髪を引きずり出した姿勢のまま固まっている。なぜか幸二も前かがみのまま動かず、黒木はどうしたらいいのかわからないまま、最悪まりあを肩に担いで逃げようと心に決めた。
そのとき、幸二が動いた――というよりは、誰かに背中を押されたかのように、前方に倒れた。通りがかった女性が「きゃっ」と声を上げる。黒木は少し迷ったが、四つん這いになった幸二に駆け寄って、肩を軽く叩いた。
「幸二さん? どうしました?」
「のられたっ」
幸二が短くそう言った。「だから戻してって言っ……おおぉぉぉぇ」
右往左往している黒木の目前で、幸二は地べたに両手をついたまま、勢いよく嘔吐し始めた。
どうする? 黒木は迷った。志朗からの指示は? だがスマートフォンに着信はない。まりあの方に目をやると、
「黒木さん、これでしたぁ……ううぅー」
涙目になりながら、髪の束を自分のポケットに押し込んでいる。
「さいあく……これが実地って……ええぇ」
まりあはぼろぼろ涙をこぼしながらそう言うと、その場に屈み込んだ。
「うう~、黒木さん……わたしも吐きそう」
「えっ!? ちょっ……ちょっと待っ」
「うえええぇぇぇ」
結構大変なことになった――黒木は少しだけ気が遠くなりかけた。
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