10

 ハンガーに吊られている服にも、明らかに不自然な隙間が空いている。夢の中でクローゼットの中に逃げ込み、体育座りをして何かをやり過ごそうとしたことが、あたかも現実だったかのように思えてしまう。

 遠ざかったはずの恐怖がふいによみがえって、背筋がひやりとした。

(待ってよ、どこまでが夢だったの?)

 そこではっとして、私は姉の部屋に向かった。ここ数ヶ月、風を通すためにしか入っていない部屋だ。姉の晴香はるかと甥の翔馬しょうまが亡くなって以降、二人の遺品はこの部屋にまとめられている。元々姉が生活していた空間だから、亡くなって二年が経つ今でもまだ、本人の気配が感じられる。

 その部屋のドアを開けた。

 中は――なんともない。カーテン、壁のポスター、学習机の上のスタンド。姉がこの家を出るまで使っていたときの状態が、まるでタイムカプセルのように保存されている。この部屋が荒らされたりしていなくてよかった。私はほっと胸をなでおろした。同時に胸が痛んだ。

 ドアを閉め、ようやくコウメの朝食のことを思い出した。決まった量のドッグフードを与えて水を取り替え、トイレもチェックする。もうシニア犬だけど、まだまだ元気だ。

「コウメ、夜に誰かが入ってきたりとか……してない?」

 食事を終えたコウメは、小首をかしげて私を見る。いつものご機嫌なコウメに見える。少なくとも、なにか怖ろしいものに出くわしたりはしていないようだ。よかった。

 朝日の明るさとコウメの存在に助けられて、私は家じゅうを見まわった。侵入者の形跡は見当たらなかったし、鍵はすべて内側からかけられていた。昨夜、現実に誰かが家に入ってきたとは思えない。手がかりがまるでないし、それにあのわけのわからない恐怖は、現実の人間ではありえない――と思う。

「どーしよう、コウメ。シロさんに連絡する?」

 私はコウメの背中をなでながら話しかける。

 迷う。

 気がかりなのは確かだ。あんなリアリティのある夢は見たことがないし、昨日記憶がなくなったことも異常事態だとは思う。

 でも、ためらいもある。だって夢は夢だ。あれはあくまで普通の悪夢の域を出ないものかもしれないし、私は寝ぼけてクローゼットの中に入っただけかもしれない。「駅にすぐ行かない方がいい」というあの忠告と、本当に関係があるのかどうかがわからない。というかもし関係があったとして、そのことをシロさんに相談したら、彼の忠告を即無視したことも知られてしまうのではないか。

「うーん、電話とかしたくないな~」

 そう言いながらコウメの背中をポンポン叩く。コウメは嬉しそうにこっちを振り向く。

 後から思えば、あのときの「シロさんに電話したくないな」という感情は、私のものではなかったのかもしれない。とにかくこのとき、私はぐにゃぐにゃと言い訳を考えて、シロさんとのコンタクトを先送りにしてしまったのだ。たとえばシロさんに相談すると、「も~、そういうとこですよ神谷さんは」とかなんとか言われそうでイヤだなぁとか、親切に「志朗さんのああいうの、当たりますから」と教えてくれた黒木さんに申し訳ないなぁとか、無職だから料金が地味に厳しいんだよなぁとか……朝の光で恐怖感が麻痺していたことも手伝っていただろう。明るい場所で柴犬をなでていると、夜のうちに感じた怖ろしさはだんだん遠く、思い出すのが難しいほど遠くへ去ってしまう。だからこのときは、こう決めた。

 もしももう一度あの夢を見たら、そのときはすぐシロさんに相談しよう、と。

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