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 ハンガーに吊られている服にも、明らかに不自然な隙間が空いている。夢の中でクローゼットの中に逃げ込み、体育座りをして何かをやり過ごそうとしたことが、あたかも現実だったかのように思えてしまう。

 遠ざかったはずの恐怖がふいによみがえって、背筋がひやりとした。

(待ってよ、どこまでが夢だったの?)

 そこではっとして、私は姉の部屋に向かった。ここ数ヶ月、風を通すためにしか入っていない部屋だ。姉の晴香はるかと甥の翔馬しょうまが亡くなって以降、二人の遺品はこの部屋にまとめられている。元々姉が生活していた空間だから、亡くなって二年が経つ今でもまだ、本人の気配が感じられる。

 その部屋のドアを開けた。

 中は――なんともない。カーテン、壁のポスター、学習机の上のスタンド。姉がこの家を出るまで使っていたときの状態が、まるでタイムカプセルのように保存されている。この部屋が荒らされたりしていなくてよかった。私はほっと胸をなでおろした。同時に胸が痛んだ。

 ドアを閉め、ようやくコウメの朝食のことを思い出した。決まった量のドッグフードを与えて水を取り替え、トイレもチェックする。もうシニア犬だけど、まだまだ元気だ。

「コウメ、夜に誰かが入ってきたりとか……してない?」

 食事を終えたコウメは、小首をかしげて私を見る。いつものご機嫌なコウメに見える。少なくとも、なにか怖ろしいものに出くわしたりはしていないようだ。よかった。

 朝日の明るさとコウメの存在に助けられて、私は家じゅうを見まわった。侵入者の形跡は見当たらなかったし、鍵はすべて内側からかけられていた。昨夜、現実に誰かが家に入ってきたとは思えない。手がかりがまるでないし、それにあのわけのわからない恐怖は、現実の人間ではありえない――と思う。

「どーしよう、コウメ。シロさんに連絡する?」

 私はコウメの背中をなでながら話しかける。

 迷う。

 気がかりなのは確かだ。あんなリアリティのある夢は見たことがないし、昨日記憶がなくなったことも異常事態だとは思う。

 でも、ためらいもある。だって夢は夢だ。あれはあくまで普通の悪夢の域を出ないものかもしれないし、私は寝ぼけてクローゼットの中に入っただけかもしれない。「駅にすぐ行かない方がいい」というあの忠告と、本当に関係があるのかどうかがわからない。というかもし関係があったとして、そのことをシロさんに相談したら、彼の忠告を即無視したことも知られてしまうのではないか。

「うーん、電話とかしたくないな~」

 そう言いながらコウメの背中をポンポン叩く。コウメは嬉しそうにこっちを振り向く。

 仮にシロさんに相談したとする。と、シロさんは「も~、そういうとこですよ神谷さんは」とかなんとか言いそう……あくまで想像だけど、考えただけで正直イラッとくる。忠告を無視した私の自業自得だから仕方ないけど、頭で理解するのと心で納得するのとはまた別の話だ。私が仕事や婚活に失敗している間に女をとっかえひっかえしていたような(本当にしていたかどうかはわからないけど、していそうな気がすごくする)ひとに「そういうとこ」とか言われたくない。あとは親切に「志朗さんのああいうの、当たりますから」と教えてくれた黒木さんにも申し訳ない。それに料金がかかるのも地味に厳しい。何しろ収入がないから――

 なんて考えた私は、やっぱり朝の光で恐怖感が麻痺していたのだと思う。明るい場所で柴犬をなでていると、夜のうちに感じた怖ろしさはだんだん遠く、思い出すのが難しいほど遠くへ去っていく。だから決めてしまった。

 もしももう一度あの夢を見たら、そのときはすぐシロさんに相談しよう、と。

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