09
クローゼットの外と内に、重苦しい沈黙が流れている。
ひざを抱えて座る自分の、心臓の音が頭の中に響いている。この音が外まで聞こえたらどうするんだと当たりたくなるくらい、怖かった。見てもいないものがなぜこんなに怖ろしいのかわからない。でも、このクローゼットの扉を開けられたらおしまいだという確信があった。呼吸の音がもれないように、汗だくの手で口元を押えた。
少しだけ動かした右足に何かが触れて、声を上げそうになった。すぐにそれが、以前よく使っていた合皮のバッグだということに気づいた。クローゼットの中に置いた衣裳ケースの上にあったものを、中に入ったときに落としたらしい。少しだけ安堵するとともに、声がもれそうになった。そのとき、コン、コンと、ゆっくりとしたノックが合板を揺らした。
もちろん返事なんかしない。息を殺して、外にいるものをどうにかやり過ごそうとした。
そのとき、扉の向こうからかすかな声が聞こえた。
「せんぱい」
女の声だった。恐怖でいっぱいになった頭の中に、それは小石のようにすとんと落ちてきた。聞き覚えがある、と思った。何度も聞いたことがある声のようで、違う気もする。誰の声だろう。
コンコン。また扉をノックされた。今度は少しだけ速いペースで。叫びだしたくなるのを堪えて、口を押えた手に力を入れた。
どこからか犬の吠える声が聞こえてきたのは、そのときだ。まぎれもなく聞き慣れたコウメの声だった。
犬の鳴き声にかぶせるように、もう一度コンコンとノックが聞こえた。目の前が、霧がかかったように白くなった。
次に目を開けると、私は自分のベッドの中にいた。
犬の鳴き声がする。遮光カーテンの隙間から、白い日光が差し込んでくる。何時かわからないけれど、もう朝日が昇っている。
私ははじかれたように体を起こした。とっさに部屋の入口を見る。ドアは開いていた。私が昨日、コウメが入ってこられるようにと開けたままの恰好だ。
コウメはもうとっくに目を覚ましていたのか、ラグの上をうろうろしていた。体を起こした私と目が合うと、寝過ごしたことを叱るように一声ワンと吠えた。
部屋の時計を見上げる。午前七時五分。カーテンを開け、窓を開ける。夏の気配が感じられる陽光が頬に当たる。人の声がする。はす向かいのおばあさんが、朝から門の前を掃いているのだ。
はーっ、と大きなため息が口から飛び出した。夢だったのか。廊下の床を踏みしめる足音、何かが歩き回る気配、部屋のドアを、クローゼットの扉をノックされたこと。あり得ないほどのリアリティがあった。でも、夢だったのだ。
「なんだ、夢オチか……はーっ」
もう一度ため息をついた。コウメがまた鳴いて朝食をせかす。私は「はいはい」と言いながらベッドを降りた。襟元が冷たい。いつのまにか汗だくになっていた。
昨日はまださほどの暑さではなかったし、この辺りは夜になると涼しい。だからエアコンを点けずに寝たのだけれど、夜中に暑くなったのかもしれない。それで悪夢を見たんじゃないだろうか。
「うわーっ、気持ちわるい。こりゃ全部着替えなきゃダメだね」
コウメに話しかける。もちろん相槌なんか返ってはこないけれど、「そうなの?」とでも言うように、黒い瞳でじっと見つめ返してくる。
「ごめんちょっと待って、服持ってくから」
コウメに餌をあげて、それからシャワーを浴びよう。でないと気持ち悪くて仕方がない――そう思いながらクローゼットを開けて、息をのんだ。
合皮のバッグが、床板の上に落ちていた。
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