04

(コウメがなぁ)

 頭の中に、一頭の柴犬の顔が浮かんだ。言うまでもなく、我が家で飼っている犬の顔だ。

 たまたま用事があって、両親は泊りがけで出かけている。そしてコウメは無人の家が苦手だ。今日だって両親が出かけた後、しきりに私にまとわりついてくるのを、この次はいつアポがとれるかわからないから――と振り切って出かけてきたのだ。年をとったせいか、ストレスでお腹を壊すことも増えた。できるだけ早く帰りたい。

(調べた感じ、次の電車に乗れないと最終的に一時間くらい変わっちゃうんだよね)

 で、結局私の足は、予定通り地下鉄境町駅に向かった。

 やっぱり予定通り帰ってしまおう。そう決めたのだ。シロさんの予言が必ず当たるとは限らないし、もし当たって何かに取り憑かれたとしても、それならそれで対処してくれるようなことを言っていたはずだ。

 それに、知りたい気持ちもあった。駅の方から来るというものが、一体何なのか。それは人を無差別に襲う怪異か、それとも私個人に取りつくものなのか。私個人に取りつくのだとしたら、一体なぜそうなるのか。

 で、一時の好奇心というものは、大抵の場合高くつくものだ。


 地下鉄境町駅の一番出口が見えてきたとき、私は安心のためにほっと一息ついた。ここまで結局何も起こらなかったということが、私をすっかり油断させていた。

 さっさと電車に乗ろう。バッグの口を開け、交通系ICカードを取り出す。その時だった。

「……神谷先輩?」

 女性の声が聞こえた。

 ぎょっとした。これは私の知っている声だ。

 振り返ると、若い女の子が立っていた。

(嘘でしょ、こんなところで会うことある?)

 そう思った。それから、やっぱりシロさんに言われたとおりにすればよかった――とも思った。コウメの面影と、無意味な好奇心に駆られた数分前の私を、全力で止めに行きたくなった。

 彼女は両目を大きく見開き、私のことをじっと見つめていた。

 確かこの子は、私よりも少し年下だったはずだ。背丈は私よりちょっと高く、やせ型でスタイルがよくて、一見おしゃれで人当たりのいい、明るい雰囲気の子だった。少なくとも初対面ではそう見える、そういう子だ。

 でも、今日は違う。驚いたような表情を浮かべた顔はほとんどすっぴんだし、髪の毛はぼさぼさだ。服だって、着古したルームウェアみたいなスウェットを着ている。

「たか――」

 思わず相手の名前を呼びかけたそのとき、彼女の顔が急に変わった。すっと無表情になった後、今度はふいに笑顔になったのだ。いやな笑顔だった。口角がぎゅっと吊り上がり、目が糸のように細くなった。

「やっぱり! 神谷先輩ですよねぇ」

 高い声でそう言いながら、彼女は人混みを縫ってこちらに来ようとする。とっさに逃げようとしたが遅かった。左腕をつかまれ、ぐっと引っ張られた。

「ほらぁ、やっぱり先輩じゃないですか。無視しないでくださいよぉ。わたしのこと、わかりますよね?」

 彼女は嬉しそうに笑っている。立ち止まった私たちが通行人の邪魔になろうとお構いなしだ。

「すごーい偶然、こんなところでこんな風に再会できるなんて、ちょっと運命ぽくないですか? あれ? もしかして私のこと覚えてません? うそでしょ? 鷹島たかしまですよ鷹島。覚えてますよねぇ?」

 私はあきらめて、彼女に「鷹島さん」と声をかけた。鷹島さんはますます嬉しそうに笑う。

「やっぱり覚えてたぁ」


 彼女――鷹島美冬みふゆは、私が会社を辞める動機になった人物だ。

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