03

 シロさんが、真っ白な紙の上に指を置く。ピアニストが曲を弾き始める直前みたいに、辺りの空気が一瞬、しんと緊張する。

 白紙の上で手が動き始める。シロさんは軽く俯いたままだ。まるで指先にセンサーがついていて、何かを読み取っているみたいに見える。

 これで何を知ることができるのか、私にはさっぱりわからない。シロさんに雇われている黒木さんにすらわからないらしい。

 でも、シロさんにはわかる。

 一分もそうしていなかっただろう。やがてシロさんの手がすっと上がり、俯いていた顔が前を向く。それからシロさんは、慣れた手つきで巻物をくるくると片付け始める。

「やっぱり、神谷さんによくないものがついてるとかはないです。今のところね」

 私は「はぁ」と、半分ため息みたいな返事をした。

 ほっとしたのが半分、がっかりしたのが半分だった。やっぱり今の不調は「よくないもの」のせいじゃなく、私自身に原因があるからこうなったのか……。

 とはいえ、引っかかるところもある。

「シロさん、『今のところは』って言いましたけど……それって、もしかしてこれから何か起こる可能性があるってことですか?」

 尋ねてみると、「まぁ、そうですね」とシロさんは曖昧に肯定した。

「そうですねって……それ私、どうしたらいいんですか?」

「まだ神谷さんにくっついたわけじゃないし、よくわからないんですよね〜」

 のんびりした口調で言いながら、シロさんは巻物をテーブルの下に仕舞ってしまう。それから急に、

「神谷さん、お帰りは電車ですか?」

 と聞いてきた。

「はい? そうです」

「車は? 免許持っておられます?」

「一応持ってますけどペーパーです。街中に住んでるわけじゃないから運転できないと不便なんですけど、私車の運転はほんっとうにセンスがなくて、絶対にするなと両親が」

「地方に住んでて親御さんがそこまで止めるの、相当じゃないですか? ……まぁそれはおいといて、今日はすぐ電車に乗らない方がいいかもしれないです」

「はぁ?」

「駅の方から何か来る気がします。堺町駅」

 シロさんが言った。口調としては世間話の延長のようで、でもそれは不思議と託宣といっていいような響きを帯びていた。

「何かって、なんですか?」

「そこまではなぁ。くっついてからもう一度いらしてくれたら、たぶんわかります」

 私にくっつかない限りは、対処ができないということらしい。

「まぁ、ちょっと時間つぶして行かれたらいいですよ。それか、ちょっと遠いですけど別の駅から帰るとか」

 次の来客の予定があるらしく、そこでひさしぶりの再会は幕切れとなった。やっぱり寂しい。あまりに淡々とし過ぎじゃないか……あれこれ考えてしまうけれど、仕事だというなら仕方がない。

 私はお礼を言って応接室を出た。黒木さんが玄関まで見送ってくれた。

「神谷さん、帰るとき気をつけてくださいね。志朗さんのああいうの、当たりますから」

 黒木さんは真面目な顔で忠告してくれる。真剣に心配されればされるほど、気分はよくない。

「……ありがとうございます」

 不吉な予言だけが手に入ってしまった。やっぱり来ないほうがよかったのかもしれない――ともかく、私はシロさんの事務所を出た。


 マンションの近くに公園がある。そこのベンチに座って、帰るルートを検索し直した。徒歩二十分くらいのところに地下鉄の駅があり、そこから帰れないこともない。が、結構回りくどいルートになるようだ。この辺りならともかく、私の地元に――つまり田舎に行けば行くほど、電車を一本乗り逃したときの影響は大きい。

(やっぱりなるはやで帰りたいんだよね)

 シロさんはああ言ったけど、そして黒木さんからも忠告を受けたけれど、それでも帰宅を遅らせたくない理由があった。

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