第0017話


【全体】


 二人が静かになってしばらく、悠樹が人差し指でそっと萌花の唇に触れた。萌花はすこしぼんやりと目を開ける。口を塞がれたまま、悠樹の真剣な顔と「しー」の合図を見て、彼女は声を出さなかった。


 夜が更けて人が寝静まる中、わずかな音でも響くので、悠樹は極めて小さな声で萌花に話す。


 「怒らないで聞いて。確かめなきゃいけないことがあるんだ――」


 そして彼は萌花の唇から指を離し、スマホのメモアプリを開いた。そこには彼が言いたいことが事前に書かれていた。予め設定された夜間モードの微かな光は萌花の目を刺激しない。


 萌花はメモに書かれた内容を見て驚いた。読み終えると、眉を八の字にして複雑な気持ちになりながらも、悠樹に頷いて合図をした。悠樹もそうして返す。


 そして二人は行動を開始した。


 彼らはそっとして、ゆっくりと音を立てないようにベッドから降りた。悠樹はこの木の床が軋む音を立たないことを幸運に思っている。


 二人は警戒しながら部屋のドアに向かい、距離が近づくほどに心臓の鼓動が速くなっていく。


 しばらくして、彼らようやくドアの前にたどり着いた。悠樹は萌花をドアの横のクローゼットの後ろに隠れるように指示し、萌花はそこに隠れ、頭を出して様子をうかがっている。


 悠樹はポケットに手を入れ、自作の唐辛子スプレーの蓋を静かに外し、すぐに使える状態で瓶を背後に隠した。そして、ドアのかんぬきへ左手を伸ばす。彼は心臓の鼓動が手から伝わるのを危惧して、手はかんぬきの上で止まった。


 二人とも非常に緊張しているが、確かめる必要があると思っている悠樹は躊躇できない。


 お互いに準備が整ったことを示し合った後、悠樹は軽やか且つ素早くかんぬきを外した。


 彼はものすごく集中して外を聞く。


 音がしなかった。


 それから、彼はドアをそっと開けて細い隙間から外を覗き、目で素早く状況を把握する。廊下の微かな星明かりは彼が想像した光景を照らしていなかった。


 彼はすこし安心し、少なくとも最悪の事態ではないと思った。


 続いて、彼はドアをそっと開け、廊下に出てスマホの照明機能を使って周囲を照らし、廊下に異常がないことを確認した後、ついてくるように萌花に合図をした。


 二人は忍びやかにバルコニーと萌花が元々いた部屋を確認し、窓越しに裏庭の薬草畑の周りにも異常がないことを確認した。


 次に、彼らは少女がいる部屋を細心の注意を払いながら通り過ぎ、階段を下りて調合室に到着した。萌花もスマホの照明機能を起動し、二人で調合室、店舗、地下室の人が隠れられる場所をすべて確認する。


 その結果に、二人は再び胸を撫で下ろした。


 悠樹は唐辛子スプレーをポケットに戻した。次に彼は少女と話をする必要がある。けれどその前に萌花に隠れさせないといけないので、彼は周囲を見回して適切な場所を探した。


 地下室は隠れられるところがあって、隠れ場所としても最適かもしれない。だが、もしなにか問題が起こった場合、密室では却って危険が増すため、二人は調合室と裏庭を繋ぐドアの前を選んだ。


 そこはL字型の魔法薬製作エリアの角にあたり、しゃがみ込めば階段やテーブルの位置からは見えない死角になっていて、直接そこに行かなければ見えない場所だ。隠蔽性は地下室ほど良くはないが、万が一なにかがあっても、悠樹が迅速に対応できる。


 それに彼はもし見つかったら、その時は開き直ればいいと思っている。


 「ここにしゃがんで隠れてて。おれがいいと言うまで出てこないで、なにかあったら大声で叫ぶんだよ」


 彼はそう萌花にささやくと、地下室に下りて、階段の付近でわざと物音を立て、2階に注意を集中させた。


 この方法はすこし失礼かもしれないが、彼は、自分が少女を呼びに行くよりも、少女が自ら下りてくれるほうが萌花にとっても、自分にとっても安全で、最善の選択だと考えた。


 しばらく待つと、2階から微かな音が聞こえてきた。すると悠樹は地下室の奥へ向かってこう言う。


 「じゃあ、また後で」


 そして、彼はタイミングを計って階段を上がり、少女が地下室から出てくる自分を目撃させるようにした。


 「猫森……さん?」


 「ああ、令狐さん。すみません、起こしちゃったんですか?」


 少女が答える前に、悠樹は話を続けた。


 「ちょうど令狐さんに話したいことがあります。座って話せませんか?」


 「は…はい」


 二人はテーブルの両側の椅子に座り、すこし硬い雰囲気が漂った。


 少女は階段を下りる時に使った蝋燭ランプをテーブルの中央に置き、杖をテーブルの横に立てかけた。スマホの照明が眩しいので、悠樹はそれを消してスマホをしまった。今はその蝋燭ランプだけが照明である。1つの蝋燭ランプが照らせる範囲はとても限られていた。


 長方形の木製テーブルの表面には、無数の傷と使い込まれた艶があり、無言で思い出を語っているかのよう。蝋燭の橙色の暖かい色合いの光と木製家具の微かな木の香りが、部屋の中にその蝋燭ランプを中心に陶酔させられる空間を作り出していた。


 外からはどこかで断続的に虫の鳴き声が聞こえていた。昨晩までエアコンを使っていたのに、今は2枚の服を着ていても、悠樹は寒さを感じている。これらすべての感覚は彼に異国の地にいることを実感させた。


 少女は寝間着を着ていて、ショールをかけている。左手で右側のショールをすこし引っ張る仕草が、彼女の緊張を感じさせた。


 「……令狐さん、急に状況が変わったので、伝えますね。実はついさっき、おれと萌花は、おれたちの世界の人から帰る方法が見つかったんだと、通知を受け取りました。だから、令狐さんにお別れを言おうかと思いまして」


 「えっ? よかったです! あ、ところで……通知というのは……?」


 少女はとても喜んでいるようだったが、すこし理解できない様子だったので、悠樹はまたスマホを取り出し、彼女に説明する。


 「スマホは写真を撮ったり、照明に使ったりするだけじゃなく、どこまで遠く離れた場所にいても、他のスマホを持つ人と連絡できるんです。おれたちの世界ではすごく便利な道具です。まあ……お金が結構かかるんですけどね。この世界には似たような道具や魔法がありますか?」


 「すごいですね! その、この世界にはそんなものはありません……もしあったら、どんなによかったのでしょう……」


 「今朝ここに来た時、他の人に連絡しようとしたけど、うまくいきませんでした。ところが、ついさっき、おれたちがあっちからの発信を受信しました。おれたちの世界の人たちがその魔法陣を解析し、逆召喚の方法を完成させたんです。でも、なんか急がないとダメだったし、1度に1人しか転送できないので、萌花を先に帰しました。おれは帰る前にこのことを令狐さんに伝える役目です」


 「お…おめでとうございます! お二人の世界の技術は本当にすごいですね! こんなに早く帰る方法が見つかるなんて、本当によかったです!」


 悠樹は少女の一挙手一投足を注意深く観察している。


 「…………なので、昼間のあの約束を果たせなくなってしまいました。すみません」


 「ど…どうか謝らないでください。お二人が元の世界に帰れることがなによりも大切です」


 「……」


 悠樹は数秒間沈黙し、そして続けた。


 「おれが帰るまでまだちょっと時間があります。迷惑をかけて申し訳ないですが、もうすこし話していてもいいですか? せっかく異世界に来たので、ここのことをもっと聞きたいんです」


 「あ、はい! よろこんで」


 少女は快く承諾し、悠樹は確かめたかったことを確認し始める。



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