③田中暁
――大学から少し離れた、僕たちが住んでいるマンションとはまるっきり反対方向にある喫茶店。それが、僕が田中さんに指定した店だった。
僕が先に座り、背中合わせになるように壁を挟んだ席に八坂さんが座って……という形で田中さんを待っていた僕は、スマートフォンで時間を確認する。
現在時刻、四時四十四分……嫌なものを見てしまった。
タイミングが悪いなと苦笑する中、カランカランと喫茶店のドアに取り付けられていたベルが鳴る音がして、一人の客が入ってくる。
くたびれたスーツを着ている、疲れた様子の男性……歳は僕の倍くらい離れているように見えるが、実際はどうなのかはわからない。
ただ、直感的に彼が待ち合わせの相手だと感じ取った僕と同じく、彼の方も僕と目を合わせて、同じことを思ったようだ。
「えっと……君が朝倉くん、かな……?」
「はい。あなたが田中さんですね」
座っていた席から立ち、田中さんと挨拶をする。
目の下にくまができている、疲れ切った顔をしている田中さんも頭を下げて挨拶をした後、お互いに席に座って……そこから少しだけ、無言の時が流れた。
「……電話で何度か話したことがあるけど、こうして向かい合うと緊張してしまうね。情けないな」
「……少し、落ち着きましょう。何か飲みますか?」
「ありがとう。ははっ、これじゃあどちらが年上かわからないね」
少しだけ緊張の解れた声を出しながら、田中さんが弱々しく笑う。
その後、ホットコーヒーを二つ頼んだ僕たちは、それを飲みながら軽く談笑をして、そうしてから本題に入った。
「……こんな意味のわからない話を信じて、会ってくれてありがとう。今から私がする話は突拍子もないけど、笑わずに聞いてもらえると嬉しい」
「こうしてあなたと会うことを決めた時点で、そのつもりですよ」
この一か月、僕はこの世のものとは思えない怪異たちと遭遇してきた。あれと出会った今の僕なら、どんな話でも信じることができる気がする。
そんな思いを込めながら僕が答えれば、田中さんは再度ありがとうと感謝した後で自己紹介から話を始めた。
「私の名前は
「……電話の相手であるモモという人は、そういったお店の方ですか?」
「ああ、そうだよ。モモちゃんは私にとって本当に大切な……大切な、存在だった」
そう言いながら、田中さんが深く息を吐く。
そのため息から僕が彼の脱力と悲しみ、虚無と苦しみが混在した感情を感じ取る中、田中さんはモモという人物について話をしていった。
「――もう、二年ほど前になると思う。モモちゃんは私がよく行くお店の新人として入ってきて、たまたま私の席に着いたんだ。そこで、私たちは意気投合して……以降、私は彼女を指名するようになった」
そこで顔を上げた田中さんは、僕を見ながら苦笑を浮かべ、少しだけ気まずそうに言う。
「そうやって何度も指名して、話をしていくうちに、私たちはどんどん仲良くなっていった。私は見ての通りの冴えないサラリーマンだが、少しでもモモちゃんのためになればとお店に通い、高めの酒を注文したものだ。それでも、店の中では安酒の部類だったけどね」
くだらない見栄を張っていたのさ、と自嘲気味に田中さんが言う。
僕はそういったお店に行ったことがないのでよくわからなかったが、彼がモモさんという人に入れ込んでいることはわかった。
「……まあ、その甲斐あってかモモちゃんはメールアドレスだけじゃなく、携帯電話の番号も教えてくれた。もしかしたら純粋な好意ではなく、自分に金を使ってくれる私という客を逃がさないようにそうしていただけなのかもしれないが……それでも私は嬉しかったんだ」
「……好きだったんですか? その人のことが……?」
「いいや、そうじゃないよ。モモちゃんは女性として魅力的ではあったが……いや、だからこそ、私は身の程というものを弁えていた。年齢も一回りは離れている彼女に恋心を抱くほど、私も浮ついてはいないさ」
「じゃあ、なんでそこまで……?」
あまりいい意味では使われないが、僕も色恋営業という言葉は知っている。
異性の恋愛感情を刺激し、自分に金を使わせるようなやり方……てっきり、田中さんはモモさんのそういったテクニックに乗せられていたのだと思ったが、どうやら少し事情が違うようだ。
「……ただ、幸せだったんだよ。会社でこき使われ、家に帰っても誰もいない。そんな日々の中でモモちゃんだけが私の癒しだった。彼女と話している間だけは、心の底から幸せを感じ、安らぐことができたんだ」
「だから、大切だったと?」
「……ああ」
短く、田中さんがそう答える。
その答えに、ここまでの話に、彼が失った大切な人とは誰であったかを再確認した僕へと、田中さんが奇妙な間違い電話についての話に踏み込んでいく。
「君に最初の間違い電話をしたあの日……私は早めに退社し、他の店で軽く一杯飲んだ後でモモちゃんが勤める店に行こうとした。その時はモモちゃんに指名が入ってないかどうかを電話をかけて確かめることにしててね。いつも通り、スマホの電話帳に登録していたモモちゃんの電話番号をタップしたはずだったんだ」
「それなのに、電話に出たのは見ず知らずの僕だった。そういうことですか?」
「そう……私も驚いたよ。それで、改めて発信履歴と電話帳を確認した。でも、間違いなく私はずっと前から使っているモモちゃんの番号に電話をかけていたんだ」
そう語りながら、重ねた両手を強く握り締める田中さんの表情は強張っていた。
多分、ここからが不思議な話の本題なのだろうと……そう理解する僕へと、彼は話を続ける。
「私も最初は戸惑ったよ。その日は結局、もう一度同じ番号に電話をかける踏ん切りがつかなくってね……家に帰って寝ることにした。それで、布団の中で思ったんだ。電話に出たのは、モモちゃんの彼氏だったんじゃないかなって」
そう話した田中さんはホットコーヒーを一口飲むと、その日に考えたことについて語ってくれた。
「モモちゃんには彼氏がいて、その彼がモモちゃんの代わりに勝手に電話に出た。聞こえた声も若かったし、モモちゃんと同世代くらいの男の子って感じの印象だったしね。一番あり得る可能性としてはこんなところだろうと私は考えた」
「それで、その話はモモさんにはしたんですか?」
「いや……次の日に電話をした時は普通だったし、お店に行った時も特に変な様子はなかったし、何よりモモちゃんのプライベートな恋愛に口を挟む権利なんて私にはない。向こうが言わないのなら、こっちが敢えて話題に出す必要もないだろうと思ったんだ。私がしたことといえば、せいぜいモモちゃんに彼氏がいるということを踏まえて、改めて接し方に気を付けようと思ったことくらいだよ」
僕をモモさんの恋人だと勘違いした田中さんは、そのままそれを解くこともなく日々を過ごした。
そうして、話は二度目の間違い電話……GW中のあの日の出来事に移っていく。
「次に君が電話に出た時、私はまたかと思った。やっぱり電話番号も電話先も間違えてなかったから、今日はモモちゃんはお店を休んで彼氏と一緒にいるんだろうと思ったよ。だからその日はお店に行くのを止めて、家に帰った……でも、そうするべきじゃなかったんだ」
「えっ……?」
その言葉と共に、田中さんの悲痛な雰囲気が強まる。
自身の行動を後悔している彼は悲しそうに目を伏せたまま、小さな声で言った。
「あの日、私が店に行っていれば……モモちゃんが死ぬこともなかったかもしれないのに……」
「どういうことですか? モモさんの身に、何が……?」
思わずそう聞き返してしまった僕へと顔を上げた田中さんが、小さくため息を吐く。
目に涙を浮かべながら、彼はか細い声で己の後悔とモモさんに何が起きたのかを話し始めた。
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