5月1日(日)①

「本日で助っ人として働いてくれていた朝倉くんと八坂さんの契約期間が終了します。二人とも、本当にお疲れ様。そして、ありがとうございました」


 そうして迎えた短期バイト最終日の仕事は、特に忙しくもなく、暇過ぎるということもなく終わった。

 営業終了後に残っていたスタッフさんたちへと退職の挨拶をした僕と八坂さんは、それが終わった後で細川さんと話をする。


「店長。昨日、お話した件ですが……」


「ああ、わかってる。みんなはすぐ帰らせるから、自由にしてくれ。ただ、危ないことはしないでね」


「ありがとうございます。気を付けます」


 ホールスタッフとしてのアルバイトは終わったが、僕たちにはこの後にやることがある。

 八坂さんが昨日の内に話を通してくれたおかげで準備は整っていて、あとはそれに臨むだけだ。


「あの、細川さん。午前中に本社の人とそういうことに詳しい人が来るって言ってましたけど、40番席について何か言ってましたか?」


「……半分はどうにかなったって言ってたよ。ただ、もう半分は時間がかかると思うとも言ってた」


「そう、ですか……」


 先にホールへと向かった八坂さんを追う前、僕は細川さんにそんな質問を投げかけてみた。

 除霊……というのかはわからないが、本社の人たちが連れてきた人間も作業を行っているようだ。


 進捗は半分程度。ということは、まだあの40番席にはが残っている。

 それがわかれば十分だと、答えてくれた細川さんに頭を下げた後で営業終了後の寂しさを感じさせるホールへと向かった僕は、既に席の傍で待機していた八坂さんに合流した。


「……準備はいい? じゃあ、始めましょうか」


「なんて言うか、こんなに簡単に始まるんだね。もっと何か道具とかを用意するのかと思ってた」


「あら、私が巫女服でも着てくるかと思って期待してたのかしら?」


 そう、八坂さんが目を細めて微笑みながら僕をからかう。

 これは冗談で場を和ませつつ、僕の緊張を解そうという彼女の気遣いなのだろう。


 八坂さんがここまでリラックスしているということは、そこまで心配することのない状況ということだ。

 確実に危険だと理解できた蒲生親子の呪いと相対した時とは全く違う彼女の雰囲気に少しだけ安堵した僕を見た八坂さんは、小さく頷いてから席に座ろうとした。


「じゃあ、始めましょう。大丈夫、そこまで心配する必要は――」


 そう言いながら二人掛けのソファー席に腰掛けようとする八坂さんの手を掴む。

 言葉を途切れさせ、動きを止めてこちらへと視線を向ける彼女の手を引きながら、僕は口を開いた。


「……僕が先に座ってもいいかな?」


「……ええ。本当、朝倉くんって面白い人ね」


 心配ないと語る八坂さんを信じていないわけではない。ただ、万が一の事態が起きるということもあり得る。

 そんな時、彼女が逃げやすいように奥の席には僕が座るべきだと……そんな僕の考えを見透かしたのか、嬉しそうに微笑んだ八坂さんは、僕の言葉に従ってくれた。


 奥側の席に僕が、通路側の席に八坂さんが座る。

 そうした後、ここからどうするのかと戸惑う僕がテーブルの上に置いた手に自分の手を重ねながら、八坂さんが言った。


「目を閉じて、朝倉くん。静かに気持ちを落ち着かせれば、それでいい」


 強く握るわけでもなく、ただそっと重ねるように僕の手を取った八坂さんの言うことに従って、僕は目を閉じた。

 タクシーの時とは違って、自分が恐怖も動揺も感じていないことを感じる僕は、その凪のような感情を保つことを意識していく。


 その間、八坂さんはお経や呪文のようなものを唱えることも、特別な何かをすることもなかった。

 ただ僕の手に自分の手を重ね、静寂を保ち続けた後……不意に彼女が口を開く。


「――いいわ。目を、開けて」


 再び、その言葉に従って目を開いた僕は、向かい側に今まで存在していなかった人の姿があることに気付いた。

 八坂さんは隣で僕の手に手を重ねたままで、目の前の人影が彼女のものではないとすぐに理解できたが……僕は特に驚くこともなく、ただそれを見つめていく。


 その人影は、悲しそうに顔を伏せていた。合わせる顔がないと、そう語っているようだった。


 顔を見ずとも一目で女性とわかる容姿をしていたその人物であったが、細川さんが語っていた三十代の主婦という感じではない。

 それよりずっと年上の、白髪を生やした女性……主婦というより、老婆と表現した方が正しい彼女の姿を見た時、僕は自分の予想が間違っていなかったことを確信する。


「やっぱりそうだったんだ。この人は――」


「ええ……この呪いは、このレストランで子供を傷付けた女性の怨念じゃあない。彼女に目の前で孫を傷付けられた祖母の思念が残り続けているものよ」


 僕の考えを肯定するように、八坂さんが言う。

 こうしてその呪いの正体と対面した僕は、今まで言葉にできなかった思考が少しずつまとまっていくことを感じていた。


「……おかしいと思ったんだ。もしも呪いの正体が細川さんの話していた女性だとしたら、そもそも40。他者との接触に過敏になっていた彼女が、自分の領域に人を近付けさせるはずがないんだ」


「同時に、呪いが発現する引き金もおかしかった。あなたが言ったように40番席に誰かが座ることでも、席の周囲で騒ぐことでもなく、配膳ロボットが接近した時にのみ現象が発生する。まるで自分が目の当たりにした悲劇を繰り返すように」


 意見を擦り合わせるように、足りない部分を補足するように、八坂さんが語る。

 その話を聞く僕は目の前の人物の感情を感じ取ると共にその寂しさに目を伏せた。


 どうしてこんなことになってしまったのか、今なら全てがわかる気がする。

 目の前の彼女は誰かを傷付けるつもりも、呪うつもりもなかった。

 彼女の胸の内にあるのは、怒りや憎しみといった感情ではない。そういった感情を増幅させて、彼女は呪いになったのではない。


「……顔を、上げてください」


 真っすぐに目の前の彼女を見つめた僕がそう言えば、わずかに反応を見せてくれた女性がゆっくりと顔を上げた。

 その表情はもの悲しさと苦悶に満ちていて、僕を目にした瞬間、その表情がさらに苦しみに歪んでいく。


「うぅ、う、う……」


 唸りながら、呻きながら、彼女は僕へと手を伸ばしてきた。

 その手は僕に届くことはなかったが、それでもと僕に……僕の目の下にある傷に触れようと精一杯手を伸ばした彼女は、腕をへたりとテーブルの上に力なく落とすと共に言う。


「ごめんね……! ごめんね、マーちゃん……!!」


 ああ、やっぱりか……そう思った。

 目の前で涙する老婆の言葉は、きっとロボットから彼女の孫の泣き声が響いた時に僕が聞いたものだ。


 途切れ途切れに聞こえていたあの言葉は、孫への謝罪だった。

 それを聞いた時、彼女が何を思い、何を感じ、どうしてこうなったのかを、僕は全て理解する。


 ……八坂さんは昨日、呪いとは何かへの強い感情を基として発現する力だと僕に言った。

 蒲生親子が作り出した呪いが片山拓也への怒りと憎しみによって発現したように、目の前の彼女もまた強い感情によって呪いと化したのだろう。


 ただ、両者は全く違う存在だと僕は思う。

 目の前の彼女が抱えている感情は、怒りでも憎しみでもない。ただただ深く、強く、重い……悲しみと後悔だ。


「痛かったねぇ……怖かったねぇ……! ごめんね。おばあちゃん、傍に居たのに……マーちゃんを守ってあげられなかった。何にもできなかった……だめなおばあちゃんでごめんね……!!」


 あの日、血を流しながら泣きじゃくる孫を抱き締めながら、彼女は思ったのだろう。

 どうしてこの子を守れなかったのかと、傷付くのならば自分がそうなるべきだったと、強く思った。


 傷を負った孫をただ見つめることしかできなかった悲しみが、愛する者の身代わりになれなかった後悔が、その日の思い出と共に40番席に強く染み込んだ。

 その結果彼女は、あの悲劇のきっかけとなった配膳ロボットの接近を引き金とし、無意識のうちに同じ場面を再現させてしまう……そんな呪いと化してしまった。


「……だったんだね、呪いの対象は。この人はあの日、大切なお孫さんを守れなかったことへの後悔と悲しみを、自分自身にぶつけていたんだ」


「………」


 そう呟いた時、僕の手を握る八坂さんの手に少しだけ力が加わった。

 右手から伝わる温もりと力に八坂さんの思いを感じ取った僕は、自分がすべきことを成すために再び目の前の女性へと声をかける。


「大丈夫。お孫さんはあなたを恨んでなんかいません。絶対に、あなたに感謝しています」


「……っ!?」


 僕の言葉に、女性が驚いたように顔を上げる。

 霊や呪いの類とは思えない、人間らしい反応を見せる彼女へと笑みを向けながら……僕は、思いを込めて話を続けた。


「あなたのお孫さんは、あなたに感謝しているはずです。怖かった時、苦しかった時、強く抱き締めてくれたあなたのおかげで安心できた。一人じゃないって、そう思えたはずだから」


 僕はその場面を見たわけでも、もちろん当事者でもない。だけど、不安な時に抱き締めてもらえた時の安心感ならわかる。


 配膳ロボットが暴走した時、それをどうやっても止められなくて焦っていた時、後ろから八坂さんに抱き締めてもらえて落ち着くことができた。

 彼女の言葉に、温もりに、存在に、確かな安堵を覚えた時のことを思い返しながら、絶対にあの日、お孫さんも同じ気持ちを抱いていただろうと思いながら、僕は何よりも伝えたかったことを女性へという。


「だからもう、自分を責めないでください。あなたはあの日、確かにお孫さんを守ったんです。自分を呪う必要なんて……どこにもないんですよ」


「っ……!」


 僕の言葉を受けた女性は、驚いたような、泣いているような、それでいて笑っているような表情になった。

 戸惑いながらもそれでも何かを伝えようと口を開け閉めした後……彼女は、僕を見つめながら言う。


「……ありがとう、ね」


 ――それが、最後の言葉だった。

 そう言い残した後、僕が瞬きを一つする間に彼女の姿は消え失せ、席には僕と八坂さんだけが残る。


「……どうなったの? あの人はどこに……?」


「もう大丈夫。あの人は解放された。呪いも消えたわ」


 困惑する僕へとそう告げた八坂さんが、そっと僕の手から自分の手を放す。

 代わりに、顔をこちらに向けた彼女は、真っ赤な瞳に喜びの感情を湛えながら……静かに、少し前に聞いた言葉を僕へと言った。


「お疲れ様、朝倉くん。それと……本当にありがとう」

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