4月30日(土)①
「朝倉ちゃん、昨日は本当にごめん。俺のミスの尻拭いをさせた挙句、怪我までさせちゃって……八坂ちゃんもごめんね」
「気にしないでください。それより、昨日は僕たちの分まで仕事を引き受けてくださってありがとうございました」
「店長が今、どこにいるかわかりますか?」
「それなら店長室にいるよ。二人が来たら通してくれって言ってた」
翌日……アルバイト三日目のこの日は、少しだけ早く出勤した。
昨日の出来事について、細川さんから話を聞くためだ。
心の整理と事実確認のため、一日だけ時間が欲しい……細川さんの頼みを聞き、僕たちは一日待った。ならば、次は彼が約束を話す番だ。
「なんか、本社からも人が来てたみたいでさ。やっぱ昨日のトラブルが原因だよな~? 俺、クビとかになんのかな……!?」
昨日の失敗を引き摺る六郎丸先輩に案内されて店長室の前までやってきた僕たちは、ノックをした後で扉を開いた。
振り向き、こちらを見やる細川さんは、用意してあった椅子に座るように促してくる。
「……改めて、昨日は本当に申し訳ありませんでした。怪我の具合は……?」
「少し跡が残ってますが、大丈夫です。それよりも――」
「ああ、わかってる。例の件について、だね」
扉が閉まり、六郎丸先輩が去った後、細川さんは謝罪から話を始めた。
それを受けた後で本題について僕が尋ねれば、彼は深く息を吐いた後で答えを述べていく。
「……これは私がこの店の店長になる前、三年ほど前の話だ。ちょうど世間が感染症の脅威に晒され、様々な部分に自粛ムードが漂っていた頃、この店には厄介な客が通っていたらしい」
「厄介な客、ですか……?」
「ああ。その客は三十代の主婦で、人一倍他者との接触に敏感になっていた。だから、あまり人が来ない隅の席……あの40番席に毎回座っていたんだ」
数年前にこの店に通っていた厄介な客について、細川さんがぽつぽつと語っていく。
当時、彼はこの店で働いていなかったようなので、伝え聞いた話なのだろうが……それでも、僕はその話に耳を傾けていった。
「あの時期は誰もが感染症対策に敏感になっていたと思う。ただ、彼女はそれが行き過ぎていたらしい。注文を聞きにきたスタッフが少しでももたつけば感染のリスクが高まると怒鳴り、別テーブルの客同士の距離が近ければそれにも注意する。当時の店長が気弱だったせいか、注意されても自分は悪くないと開き直る……そういうお客さんだったみたいだ」
「変な話ですね。感染症対策と言っておきながら、自分から他者と接触する機会を作っている。そもそも不要不急の外出を禁じられているというのに人が集まるレストランに来ている時点で、行動が矛盾しています」
「そうだね……思えば、あの時期は何もかもが自粛だなんだって話で、みんなストレスが溜まっていた。そのお客さんも自粛生活の中で溜まったストレスを他者にぶつけることで、鬱憤晴らしをしていたのかもしれないね」
笑えない話だと、そう思った。
あの時期は確かに大変で、みんなつらかったと思う。だけど、それは誰もが同じ条件だったはずだ。
そんな日々の中で溜まった鬱屈した感情を、他者に怒鳴り散らすことで発散するというのは、絶対に間違っている。
無論、そのお客さんの考えは本人しかわからないわけで、この考えも細川さんの勝手な思い込みだということもあり得た。
故に、僕たちはその客の心情にはそれ以上触れず、何が起きたかについて話をしていく。
「……決定的な事件が起こったのは、彼女がおかしくなってから暫くした頃……GWが始まった、ちょうど今と同じ時期の夜のことだ。連休ということで珍しくお客さんも多く来てくれて、店は大忙しだったらしい。普段、そのお客が来ている時は40番席の周辺に他のお客さんを通さないようにしているが、その日はそうも言ってられなかったみたいだ」
昨日の出来事に起因する事件について、細川さんが語りだす。
彼もその場にはいなかっただろうが、知っていることを総動員してその時の状況を僕たちへと伝えようとしてくれていた。
「店が混雑していたせいか、あるいは私生活で何かがあったのかはわからないが、その日の彼女は特に不機嫌だったらしい。そんな状況で、40番席の隣に家族連れが座ったんだ。幼稚園に入園したばかりの男の子とその両親、そして祖父母の五人組だった」
「彼女は、その家族連れとトラブルを?」
「ああ……店はその時にちょうど、感染症対策のためにあの配膳ロボットを運用し始めた頃でね。家族連れのテーブルにもロボットを派遣した。子供は初めて目にするかわいいロボットに大はしゃぎ。家族も運ばれてきた料理を取りながら子供を微笑ましく見守っていたんだが……例の彼女は、それが許せなかったみたいだ」
――――――――――
『うるさい! その子供をすぐに黙らせろ!!』
そんな怒声が、店中に響いた。
その声を耳にした客やスタッフ、今の今まではしゃいでいた子供が凍り付く中、叫びを上げた女性客が口から唾を撒き散らしながら吠える。
『人が集まっている場所ではしゃぐな! 大声で騒ぐな! 今がどういう時期だかわかっていないのか!? 子供にどういう教育をしている!? そいつが感染者だったら、そのガキのせいで私が体調を崩したら、どう責任を取るつもりだ!?』
彼女はそう吠え、家族連れを責め立てた。
両親が頭を下げ、祖母の腕に抱かれている子供も涙ながらに謝罪するも、女性客の怒りは激しさを増すばかりで……ついに、彼女は許されざる暴挙に出てしまう。
自分のテーブルに置いてあったナイフを掴んだ彼女は、怒りのままにそれを子供目掛けて放り投げた。
本気で怒り過ぎて自分が何をしているのかわからなくなっていたのか、あるいは脅すためにそうしたが手元が狂ってしまったのかはわからない。
本気で当てるつもりはなかったと信じたいが、結果は結果だ。彼女が投げたナイフは子供の左目の下を掠め、柔らかい肌を切り裂いてしまった。
『ウアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ! ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッ!!』
静寂が漂っていた店の中に響く、子供の泣き声。痛みに、恐怖に、狂ったように泣きじゃくる子供の号泣が響き渡る。
目のすぐ下から流れる血は涙のようで、そこに瞳からあふれる本物の涙が加わり、赤い線となった血の涙が止まることなく少年の頬を伝って流れていく。
恐れの血と悲しみの涙。楽しい日常を破壊され、大声で泣き叫ぶ子供を強く抱き締める祖母もまた涙を流し、祖父は愕然とした表情で二人を見つめていた。
この事態を引き起こした女性客も、ここで我に返ったのだろう。
自分を見つめる他の客たちの冷たい視線と、我が子を傷付けられた両親からの猛抗議を受けてバツが悪くなったのか、そのまま転がるよう店から飛び出し、この場から逃げ出してしまった。
この間、店長をはじめとしたスタッフたちはただただ固まっているだけで、仲裁にも入らなかったらしい。
唯一、この騒動のすぐ傍にいたのは、料理を運んできた犬型の配膳ロボットだけだった。
――――――――――
「子供の泣き声と、目の下の傷……それって――!?」
昨日、自分が聞いた声を思い返しながら、自分自身の左目の下に残る傷跡に触れながら、僕は呟く。
愕然とする僕に向けて頷いた細川さんは、苦し気な表情を浮かべながらこう続けた。
「……この事件以降、女性客も家族連れも店に来ることはなかった。ただ、うわさによれば女性客の方は店からの帰り道で事故に遭い、そのまま亡くなったそうだ。それから暫くして、40番席に配膳ロボットが近付くと奇妙な現象が起きるようになった。なんの障害物もない場所でロボットが止まったり、変な声が聞こえてきたりね……そして、彼女が死んだGWの時期には従業員やお客様が目の下を怪我する事故も起きるようになった」
「だから事情を知ってるホールスタッフはこの時期に休みを取るんですね? でも、あれだけ高額なバイト代を提示した理由は……?」
「……言っただろう? そのお客は、店の従業員にも怒鳴り散らす。死んだ後もあの席に憑りつくくらいなんだ、こちらに不手際があったら、ホールスタッフが軽い傷を負う程度じゃ済まなくなるかもしれないじゃないか」
「その客の機嫌を損ねないために、十分な人手を用意しておきたかった……ということですか?」
無言で、細川さんが八坂さんの質問に頷く。
深いため息を吐いた彼は、顔を上げると僕たちへと言った。
「こんな店の店長を任された時には貧乏くじを引いたと思ったが、本当に貧乏くじを引いたのは君たちの方だ。黙っていてすまなかった」
「……それはもう大丈夫です。ですが、これからどうするつもりですか?」
「ああ……こんな出来事が多発しては、店の営業にも大きな影響が出る。昨日の事件の報告を受けてようやく本社の人間も重い腰を上げてね……昼間、そういうことに詳しい人間を連れて視察に来た」
「それで、どうなりましたか?」
「とりあえず今日は視察で終わらせて、明日から本格的に対処してくれるらしい。運が良ければ、すぐに解決すると言ってた」
「……そうですか」
細川さんからの返答に、僕はただそれだけの反応を見せた。
もう一度、深く息を吐いた彼は、改めて僕たちへと顔を向けると口を開く。
「本当に申し訳ないことをした。ささやかなお詫びではあるが、君たちのバイト代は倍額出させてもらうつもりだ。その引き換えというわけではないんだが……どうか今日と明日の二日間、シフトに入ってもらえないだろうか? この通りだ……!!」
そう言った細川さんが椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる。
この人にこうして頭を下げられるのは何度目だろうかと考えながら……僕は、彼のことを不憫にも思っていた。
本当に、細川さんに悪気はなかったのだろう。配膳ロボットを40番席に近付けさえしなければ、何も起こることはなかった。
高額なバイト代を出してでも人を集めるのも、こうして何度も謝罪しながら僕たちに残ってくれるよう懇願するのも、怯えているからなのだろう。
怖いのだ、彼は。得体の知れない何かに、40番席に存在する目に見えない何かに、呪いとしか思えない何かに……心の底から怯えている。
ひどく哀れで、弱々しく見える細川さんの姿を見つめながら、そう考えた僕は……静かに、彼へと言った。
「……わかりました。あと二日間、こちらで働かせていただきます」
「朝倉くん……!!」
僕の返事を聞いた細川さんが、目を大きく見開きながらこちらを向く。
半ば無理だと思いながら懇願していたであろう彼は、いい意味で期待を裏切った僕に続いて八坂さんへと視線を向けた。
「……被害を受けた朝倉くんがいいと言うのなら、私も特に気にはしません。残り二日間のアルバイトも、出勤させていただきます」
「二人とも……本当にありがとう。なんとお礼を言ったらいいか……!!」
目頭を押さえ、僕たちに感謝してくる細川さん。
そんな彼を見つめる僕は、自分が思っている以上に落ち着いていることに驚きながら息を吐く。
もしかしたら、ここで止めておくべきなのかもしれない。ただ、どうしても気になることがある。
この二日でそれを解明できるかどうかはわからないが……やれることはやってみようと、僕は思った。
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