4月29日(金)③

「救急箱、持ってきたわ。手当てをするから傷を見せて」


「そんな、わざわざ八坂さんにやってもらわなくても自分でできるよ」


「傷の場所が場所なんだから、誰かにやってもらった方が確実でしょう? 遠慮しないで、見せて」


 休憩室にて、救急箱から消毒液を取り出した八坂さんが、それを染み込ませたティッシュを手に僕へと近付いてくる。

 目の下にある小さな傷と、そこからまるで涙のように流れる血を見て目を細めた彼女は、僕の頬に手を添えながら手当てをし始めた。


「少し染みるかもしれないけど、我慢して」


「う、うん……」


 真剣な表情を浮かべる八坂さんの赤い瞳が思っていたよりも近くにあることや、彼女の手が頬に触れていることに落ち着かない気分になりながら、僕は頷く。

 流れる血を拭い、傷を優しく消毒して……と、丁寧に手当てをしてくれる彼女に感謝しながら、ジワリとにじむような痛みについ顔を顰めてしまった。


「痛むみたいね。大丈夫?」


「平気だよ、ちょっと染みただけ」


 傷に関しては痛みはほとんどなく、今も消毒液が染みたことで少し痛みを覚えただけだ。

 気に掛けてくれる八坂さんにそう答えれば、彼女は特に反応することなく手当てを続けてくれた。


 丸められた血と消毒液のにじんだティッシュをビニール袋の中に入れていく八坂さんの整った顔を見ていると、どうにもドギマギしてしまう。

 今もそうだが、地味に彼女はボディタッチが多いよな……と、頬に触れたり手を握ったり、あるいは背後から抱き着いてきたりと意外に警戒心が薄い八坂さんの行動を思い返して動揺した心をごまかすように、僕は彼女へと言った。


「こ、この傷、いつできたんだろう? 覚えがないんだけどな……」


「そうね。確かに変な位置ね」


 配膳ロボットを止めるために必死になっていたせいで、目の下を切ったことに気付かなかったのだろうか?

 それにしても顔の付近に何かが掠めたという覚えはないし、目のすぐ近くであるこの場所が傷付いたというのに原因に覚えがないというのも変だ。


 まさか、40番席へと続く通路に立っていた何かに付けられた傷なのでは……? という不吉な考えが頭をよぎる中、救急箱を漁っていた八坂さんが僕へと向き直りながら言う。


「朝倉くん。今から傷に直接触れるけど、騒がないでね」


「えっ……?」


 そう言ってきた八坂さんが未だに目の下から流れる血をティッシュで拭った後、軟膏薬を付けた指で僕の傷に触れる。

 ジワリと薬が染み込む痛みと、傷口を直接触れられる痛みに僕が顔を顰める中、薬を塗り終わった八坂さんが笑みを浮かべながら口を開いた。


「よく我慢できました。偉い、偉い」


「いたた……! 子ども扱いしないでよ……!!」


「ごめんなさいね。痛かったでしょうけど、これで血も止まると思うわ」


 まるで子供をあやすような八坂さんの言葉に、気恥ずかしさを覚えた僕が文句をこぼす。

 謝罪しながら使ったティッシュや薬を片付ける彼女を見つめていた僕は、そこでふとあることに気付いて軟膏薬を手に取った。


「どうかしたの、朝倉くん?」


「いや……珍しいなって。こういう傷口に塗るタイプの薬、飲食店では使わないような気がするからさ」


 僕も決して飲食店に詳しいわけではないが、食材に直接触れる機会が多いレストランにこういったタイプの薬が用意されていることに少しだけ違和感を覚えてしまった。

 ホール担当用の薬だという可能性も十分にあるが、うっかりこれを使った人間が食材に触ったら、料理の味が変になったり食べた人の体調に悪影響が出るかもしれない。


 止血をするのならば消毒液と絆創膏で十分だし、どうしてこんな薬が用意されているのか……? と少し僕が疑問に思う中、八坂さんがこんなことを言ってきた。


から……じゃないかしら」


「……どういう意味?」


 意味深なその言葉に、怪訝な表情を浮かべながら僕が質問を投げかける。

 僕の手から軟膏薬を取った八坂さんは、それを確認しながら詳しく話をしてくれた。


「朝倉くんも今のでわかったと思うけど、目の周囲の傷ってなかなか血が止まらないのよ。絆創膏も貼りにくいし、血が止まらないからすぐに剥がれてしまう。つまりこの薬は――」


「目の下にできた傷の治療のためだけに用意されたものだってこと?」


 そうだと思う、と言いながら薬の注意書きの部分を指差した八坂さんが僕にそこを見るように促す。

 『この薬は顔や目の付近の傷にも使用できます』と書かれている一文を読んだ僕が彼女を見やれば、八坂さんはこう話を続けた。


「……この薬には使用されている形跡がなかった。買って間もないって感じね。朝倉くんが考えたように、飲食店で普段使いするような薬じゃあないみたい。それでもこんな物が用意されてるってことは――」


「誰かが目の下を怪我するってわかってたから、その治療用に用意しておいたってこと……?」


 繁忙期かつ人手不足とはいえ、簡単な仕事内容に反した時給五千円という高額なバイト代。

 飲食店や接客業ではあまり使うとは思えないタイプの薬をわざわざ用意してあったという不可解な準備の良さ。

 そして、配膳ロボットを近付けてはいけないという40番席に関する謎のルールと、その近くに確かに存在していた何か。


 不自然なその材料たちを組み合わせると、一つの答えのようなものが浮かんでくる。

 このファミリーレストランで働くスタッフたちは、この怪異に何らかの心当たりがあるのではないだろうか?


 ホールスタッフがこぞって休んだのも、この時期にあの怪異が発生することを知っているから。その穴を埋めるために高額な時給で何も知らない新人を短期で雇い、何かあった時のために薬も用意しておく。

 多分、何も知らないのは六郎丸先輩だけだ。あの人は最近、この店でバイトを始めたと言っていた。

 それ以外の全員があの怪異について何かを知っていると……そう僕が思ったところで、ガチャリと音を立てて休憩室のドアが開く。


「二人とも、大丈夫かい? 傷の様子は……?」


 扉を開けて休憩室に入ってきたのは、店長である細川さんだった。

 罪悪感と恐怖を必死に隠そうとしながらも全くそれができていない彼は、焦りのせいか口数を多くして無言の僕たちに話しかけ続ける。


「すまなかった。六郎丸くんが間違えて、40番席にロボットを向かわせてしまったんだ。私もちゃんと確認すべきだったよ」


「………」


「今日はもう、上がっていいよ。給料は満額出すし、店のことは気にしないでくれ。あんなことがあったから、お客さんも帰ってしまったしね。あとは私と六郎丸くんでどうにかするから」


「………」


「本当に申し訳なかった。同じことを繰り返さないように、注意を――」


「店長」


 口数の多い、話すスピードがどんどん速くなっていく細川さんの言葉を遮るように、八坂さんが口を開く。

 彼女の声にびくりと体を震わせた細川さんが急に口を閉ざす中、八坂さんは静かな口調で淡々と質問を投げかける。


「説明していただけますか? あれは、なんなんです?」


「あ、う……」


 敢えて触れることを避けていたであろうあの現象へと、八坂さんが深く切り込む。

 予想はしていただろうが、彼女の鋭い追求を受けた細川さんは言葉を失い、何かを呻きながら俯いてしまった。


「小さな傷ですが、朝倉くんも怪我をしています。何の説明もなしというのは、流石に納得できません」


「……わかっている。ただ、私も全てを把握しているわけじゃあないんだ」


「少なくとも、あの現象に何か心当たりがあるってことですか?」


 彼の発言を受けて思わず口をついて出た僕の言葉に、細川さんが静かに頷く。

 やはり、彼は40番席の周辺に存在するについて心当たりがあったのかと、そう理解した僕へと細川さんが言う。


「頼む、一日だけでいい。時間をもらえないだろうか? 私の方でも情報を確認して、明日必ず話をさせてもらうから……」


 大きな体を折り畳み、深々と僕たちに頭を下げながら、細川さんが懇願する。

 無言の八坂さんからの「どうする?」という視線を受けた僕は、少し悩んだ後でこう答えた。


「……わかりました。明日、必ず説明してください。信じていますから」


「ありがとう……その信頼を裏切らないよう、努力するよ」


 頭を下げたまま、僕の答えに感謝を述べてきた細川さんの恰幅のいい体が、とても小さく見えた。

 そこから顔を上げた彼は、僕を見つめながら心苦し気に言う。


「……本当に申し訳なかった。信じてもらえないかもしれないが、怪我をさせるつもりなんてなかったんだよ」


 そう言って、肩を落としながら細川さんが休憩室を出ていく。

 無言で彼の背中を見送った僕は、そっと血が止まった目の下の傷に触れ、チクリと刺すような痛みに顔を顰めるのであった。

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