⑦あなたは何も見ていない

「私ね、今日でこの仕事を辞めるんです。この後、営業所に帰って、荷物を片付けて……それで全部、お終いにする予定です」


「そう、なんですね……」


 蒲生さんの話を聞きながらバックミラーを確認した僕は、昨晩にはそこからぶら下がっていたあのピンクの小袋がないことに気付く。

 そのことを疑問に思いながらも質問なんてできずにいる僕に向けて、蒲生さんは話を続けていった。


「本当に、色々なことがありました。沢山のお客さんを乗せました。大変なこともありましたが……いざ辞めるとなると、嫌なことばっかりじゃあなかったと思えるんですよね」


「それは運転手さんがこの仕事を頑張っていた証ですよ。嫌々続けていたら、そんなふうには思えないでしょうから」


「ははは、そうかもしれませんね。あなたみたいなかわいいお嬢さんに褒めていただけて、最後にいい思い出が増えました」


 八坂さんと会話をしながら、蒲生さんが楽し気に笑う。

 でも、どこかその声には寂しさも詰まっていて、仕事を辞めた彼のこの先が不安になった僕は、思わずそのことについて尋ねてしまっていた。


「お仕事を辞めて、どうするつもりなんですか? 次は、何を……?」


「……少し、ゆっくりしてみようと思うんです。ここ最近、特にこの一年くらいはそんなことを考える暇もありませんでしたから……少し休んでから、この先のことを考えようかなと」


「……そうですか。そうですよね。この先のことは、ゆっくりしながら考えればいいか……」


 蒲生さんの声からは、嘘を吐いているような雰囲気は感じられなかった。

 最悪の事態を想像していた僕は、彼のその答えにどこか安堵しながら胸を撫で下ろす。


「……心配、してくださったんですよね? ありがとうございます」


「いえ、気になっただけですから。お礼なんて言われることじゃありませんよ」


「ふふふ……! やっぱり、あなたはいい人だ……娘の傍にも、あなたのような人がいてくれれば……」


 寂しそうに、悲しそうに、蒲生さんが呟く。

 その言葉の意味を彼に尋ねる勇気は、僕にはなかった。


 そうやって他愛のない会話を続けている間にも、タクシーは目的地へと進み続けて……やがて、僕たちが住むマンションのすぐ近くまでやってきた。

 思っていたよりも短いようで長く、それでいてやはり短い時間をかけて目的地へと到着したタクシーが止まり、僕の横にあるドアが開く。


 そこから降りて、続く八坂さんに手を貸して……そうした後で顔を上げた僕は、運転席から降りてきた蒲生さんがすぐ近くに立っていることに気付いた。

 ギリギリ微笑んでいるとわかる表情を浮かべながら手を差し出している彼の手を掴み、握手を交わしながら……僕は、彼に言う。


「どうかお元気で。またどこかで会えることを祈っています」


「ありがとう。あなたたちと出会えて良かった」


 多分、彼とこうして話した時間は、昨晩を合わせても三十分もないのだろう。

 昨日のあれが夢でなければもっと伸びるのだろうが……もう、あれが現実かどうかを考える必要はないのかもしれない。


 忘れようと、抱えていた悩みに踏ん切りをつけた僕が蒲生さんに別れを告げ、八坂さんと共に立ち去ろうとした、その時だった。


――ドンッ


「え……っ!?」


 ――誰も乗っていないはずのタクシーの中から、音が響いた。

 その音に反応し、思わずタクシーの助手席へと目を向けてしまった僕は、そこに広がっている光景を目の当たりにして、言葉を失う。


 誰もいない。誰も乗っているはずのないタクシーの助手席、その窓ガラスに……見知った人物が顔を押し付けている。

 涙を流しながら、手で窓ガラスを何度も叩きながら、僕へと必死に叫ぶその人物は……昨晩、トラックに轢かれて亡くなったはずの、片山拓也だった。


「~~~~ッ! ~~~~ッ!!」


 片山は、僕を見つめながら必死に窓を叩き、何かを叫んでいた。

 その叫びが必死過ぎて声になっていないのか、あるいはあのタクシーの助手席と僕たちがいる空間を隔絶する何かのせいなのかはわからないが、彼が何を叫んでいるのかを僕は聞き取ることができない。


 ただ……必死の形相で叫ぶ彼が助けを求めていることだけは、間違いなかった。


 そうやって、助けを求める片山の姿を呆然と見つめていた僕の目に、さらに恐ろしい光景が映る。

 窓を叩き、声にならない声で叫ぶ彼の背後から伸びてきた手……左手の人差し指がない、一目でこの世の者ではないと思える手が、彼の顔を掴む。


 頬を掴むように伸びてきた手に顔を押さえられた瞬間、片山の表情が恐怖の一色に染まった。

 そのまま、泣き叫ぶ彼を強引に押さえつけたその手は、束ねた指を彼の両目に押し込んでいく。


「~~~~~~~~~~ッッ!!」


 ――声が聞こえなくて良かったと、心の底から思った。

 多分、きっと……片山の上げている悲鳴は、この上なく痛々しく恐怖に満ちた、恐ろしいものだっただろうから。


 柔らかい眼球を潰し、目から血の涙を流させながらも、彼を押さえる手はその力を緩めることはない。

 ぐちゃり、という音が聞こえてきそうなくらいに目を押し潰しながら……その手はゆっくりと片山を引き摺り、窓ガラスから引き離していった。


「……そうだ、お客さん。一つだけ、聞きたいことがあったんです」


 最後の最後まで、僕に助けを求めるように伸ばされていた片山の手が完全に見えなくなったタイミングで……あの、骨を芯まで凍らせるような寒気をぶり返らせて震えていた僕へと、蒲生さんが口を開く。

 昨晩、確かに目にしたあの笑みを……狂気に満ちた笑顔を僕へと向けながら、彼は言った。


「あなた、何か……変なものを見たりしましたか?」


「……っ!?」


 ゾワリとした恐怖が、背筋を駆け上がってきた。

 目の前にいる、人であるはずの存在が放つ狂気は、僕にすさまじいまでの恐怖と寒気を感じさせている。


 昨晩に目にした怨霊よりも、たった今、目の前で起きた怪異よりも……僕を見つめて笑う蒲生さんの方が、何倍も恐ろしい。

 答えを間違えれば、きっと僕も……と、自分の行く末を想像して息を飲んだ僕は、声を詰まらせて震えることしかできないでいたのだが……不意に、温かい何かが手に触れた。


「いいえ、何も。私たちは、変なものなんて見ていません」


 静かで淡々としている、だけどはっきりとした声が僕のすぐ傍で響く。

 その声を聞いた瞬間に凍っていた体が動くようになった僕が目にしたのは、僕の手を握りながら蒲生さんを真っすぐに見つめる、八坂さんの姿だった。


「私たちは何も見ていません。何も知りません」


 同じ言葉を繰り返しながら、八坂さんが僕の腕を抱く。

 まるで僕が、どこかに連れ去られてしまうことを防ぐように。


 強い力が込められているわけではなかったが、彼女に触れられているところから温度が戻っていくことがわかった。

 静かに、無言で、こちらへと視線を向けた八坂さんの意思を汲み取った僕は、大きく息を吸うと共に蒲生さんへと言う。


「……彼女の、言う通りです。僕は、僕たちは……何も見ていません。あなたが何を言いたいのかも、全くわかりません」


「……そうですか。変なことを聞いてしまってすいませんでした」


 僕の答えを聞いた満足したのか、蒲生さんは浮かべている笑みから狂気を引っ込めた。

 タクシーの中で見せていた、どこか満ち足りたような温かな笑みを浮かべた彼は、最後に僕たちへと頭を下げながら口を開く。


「それじゃあ、今度こそさようなら。どうか、お幸せに……」


 そう言い残し、蒲生さんがタクシーに乗り込む。エンジンを吹かし、僕たちの前から走り去っていく。

 角を曲がって、その姿が完全に見えなくなるまでタクシーを見送った僕は、全身が汗でびっしょりになっていることに気付いた。


「八坂さん、今、のは――」


「大丈夫、もう心配ないわ。あなたはいい意味で、あのに気に入られた。あなたがあなたでいる限り……彼女は、危害を加えたりしない」


 すっ、と胸の谷間に挟むようにして抱き締めていた僕の腕を離しながら、八坂さんが告げる。

 【呪い】という彼女の言葉に、目の前で起きた現実離れした出来事に、どう反応すればいいのかわからずにいる僕へと、八坂さんはこう続けた。


「片山先輩のことは気にしないで。彼はもう、どうしようもなかった。あの親子からの呪いを受けた時点で、ああなる運命だったのよ」


「なんなんだ、呪いって? 八坂さんは、何を知って――!?」


「あれは娘が掛けた呪い。死を選ぶ寸前、ありったけの恨みを己の人差し指に遺し、父に託した。父親は娘の無念を感じ、同時に自分の怒りと憎しみを娘の遺した人差し指に重ね……親子二代に渡る呪いを完成させた」


 淡々と語る八坂さんが、僕の手を取る。

 伸ばした指を細目で見つめながら、彼女は言う。


「左手の人差し指には、誓いの力が宿っている……復讐という望みを叶えるために、その相手を探すために、うってつけのものだったのよ」


「だったら、どうして僕たちは巻き込まれたんだ……?」


「ただの偶然よ。だけど、少し危なかった。あの指が片山先輩を指し示した時、指の根元があなたに向いていたように……朝倉くんは、あらゆる部分が先輩と真逆だったから。そのせいで、彼女もあなたを気に入ってしまったみたいね」


 ――片山は女性を酔い潰し、己の欲望のままに嬲る下種だった。

 呪いと化した加奈子さんと対面した時も、自分の安全を優先して僕たちを置いて脱出するような、そんな人間だった。


 僕が助かったのは、彼と真逆の行動を取ったからなのだろう。

 一つ選択肢を間違えていれば、僕も片山のようになっていたのかもしれない。


「でも、もう大丈夫。彼女はあなたを諦めた。呪いに愛されるなんて御免でしょうけど……片山先輩みたいに強く憎まれ、呪われるよりかはマシでしょう?」


 正直に言えば、僕は八坂さんが言っていることの半分以上は理解できていない。ただ、自分が助かったことだけはわかった。

 しかし、それで全てが納得できたわけではない。気になることが多過ぎる。


「待ってくれ。片山先輩はどうなった? あのタクシーはこれからどうなる? それに、それに――っ!?」


 止まることのない疑問をぶつけるように八坂さんへと叫ぶ僕であったが、彼女はそんな僕の唇に立てた人差し指を当ててきた。

 しーっ……と、静かに息を吐きながら、暗に黙るように僕に告げた彼女は、目を細めながら言う。


「……これ以上、知ろうとしない方がいい。深入りすれば、彼女の気が変わる可能性だってある。あの運転手さんから聞いたでしょう? ああいうものに出会ってしまった時の対処法を」


「……!」


 一瞬、八坂さんが何を言いたいのかを理解できなかった僕は、昨晩の出来事を思い返すと共に目を見開いた。

 静かに僕の唇から指を離した彼女は、答えを理解して口を閉ざした僕へと言う。


「……一応、言っておくわね。朝倉くん……。それで終わりにするのが、正しい答えよ」






 ――その言葉に従って、僕は蒲生さんやあの日の出来事について考えることを止めた。

 ただ、どうしても思ってしまうんだ。


 蒲生さんが運転手を辞めたとしても……あのタクシーは今も、この街のどこかを走っている。

 助手席におぞましい呪いと、その呪いに嬲られ続ける片山拓也を乗せながら。


 あのタクシーに二度と出会わずに済むことを、僕は祈らざるを得なかった。

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