⑤左手の人差し指

「……十年近く前に勤めていた会社が潰れた時、妻と離婚しました。娘の加奈子はまだ小学生で、親権は妻に渡って……会える機会が限られるようになりました」


「お、おい! 何を話して……!?」


「お客さんの言う通り、私は底辺の人間です。不甲斐ない父親です。でも、加奈子は……そんな私にも笑顔を向けてくれました。小学校を卒業して、中学生、高校生、果ては大学生になっても……私のことを父として愛し、想ってくれていたんです」


「くれて、……?」


 蒲生さんの話に違和感を覚えたのは、これで二度目だった。

 彼が語る娘の話が過去形であることを訝しんだ僕がそう呟けば、蒲生さんが手にしているピンク色の小袋を強く握り締めながら唸るようにして語る。


「……二年ほど前のことです。大学生になり、一人暮らしをしていた加奈子が死んだという報せを受け取ったのは。走るトラックの前にいきなり飛び出して、そのまま轢かれたと……そう聞かされました」


「っ……!」


「あり得ないと、そう思いました。ほんの少し前に、私は加奈子と会っていたんです。その時、あの子は心から笑っていた。これから始まる新生活に心を躍らせて、希望に満ちた笑顔を私に見せてくれた。子供の頃から何一つ変わらない、あの愛らしい笑顔を見せてくれていたんだ……!」


 これまで淡々と語り続け、感情をわずかにしか滲ませていなかった蒲生さんの声に、悲痛な哀しみが宿る。

 静かな慟哭。悲しみに満ちた声。我が子を喪ったことへの絶望と苦しみが、その声にはありありと表れている。


 僕も片山も、何も言えなかった。冷え切った空気に、肺が凍り付いていたのかもしれない。

 ただ、唖然とする僕と違って片山はぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返していて、顔色は真っ青になっていた。


「何故、加奈子は死を選んだのか? その理由は、あの子が死んでから少し経った頃にわかりました。私の家に、あの子からの小包が届いたんです。その中に入っていたのがこれと……一枚の手紙でした」


 じっと小袋を見つめながら語る蒲生さんの声に、哀しみ以外の感情が宿った。

 ゾワリと背筋を震わせるそれが段々と膨れ上がっていくことを感じる僕たちの前で、彼は語り続ける。


「手紙には、加奈子が味わった苦しみと絶望が刻まれていました。あの子は大学の新入生歓迎会に参加し……そこで声をかけてきた男性に襲われたんです」


「っっ……!?」


「薬を使われて、抵抗することもできなかったと書いてありました。写真を撮られて、脅されたとも書いてありました。それから男の言いなりになり、想像を絶する絶望を味わわされたと……奴隷のように扱われた加奈子の無念と苦しみが、涙に滲んだ文字で書かれていたんです」


 だ。憎悪だ。怨恨だ。

 我が子を喪った悲しみを、その絶望を塗り潰しながら蒲生さんの中で膨れ上がっている感情は、どす黒く濁り渦巻く怒りだと僕は思った。


 だけども、淡々とした彼の口調は崩れない。燃え上がるほどの憎悪を全身から噴き出させながら、それでも自分を律するように平坦に話す彼が、恐ろしいものに見える。


 僕も片山も、瞬きすらできずに蒲生さんを見つめる中……ゆっくりと顔をこちらへと向けた彼は、笑みを浮かべながらこう言ってきた。


「娘の手紙と一緒に届けられたこの袋……中に何が入っているか、教えてあげましょうか?」


 口の端を吊り上げた、目は全く笑っていない笑み。狂気しか感じられないその笑みを浮かべた蒲生さんが、手のひらに小袋を乗せながら僕たちへと言う。

 その瞬間、唐突に、何の前触れもなく車が揺れ……彼の手の上に置かれていた袋が僕たちの方へと飛んできた。


 僕と片山の間に落ちた袋の、ゆるく開いた口から、何かが転がり落ちてくる。

 まるで壊れたコンパスの針のように、ぐるぐると回転しているそれを目にした僕は、うっと呻くと共に言葉を失った。


「ぁ、ぅぁ、ぐぅ、ぁ……っ!?」


 声にならない片山の声が、喉から呻きとなって漏れる。

 その視線は僕と同じく、小袋から飛び出した何かに向けられていた。


 茶色く、紫色をしていて、同時に固まった血のような赤黒さを有しているそれ。本当に小さい、お守り袋に入ってしまうような大きさのそれ。

 長く細く、そしてゾッとするような狂気を宿しているそれの正体は……人の指だった。


「はぁ、はっ、はあ、あ、ぁぁ、はっ、ぁ……っ!!」

 

 ルーレットのように回転していたそれが、ゆっくりと紫色に変色した指先を片山へと向けて止まる。

 その指から逃れるように片山が後退る中、蒲生さんが言う。


「知っていますか? 左手の人差し指にはね、誓いの力が宿っているんです。人知れず叶えたい何かがある時、その指が力を与えてくれる……私の行くべき道を、探すべき相手を、文字通り指し示してくれるんですよ」


「ぜっ、はっ、ぐっ、ぅ、ぅぅ……!?」


「ずっと、探していましたよ。その指、見覚えがあるでしょう? ……ねえ、片山拓也さん」


「ひぅっ!? あ、ああああああっ!?」


 教えていない名前を呼ばれた片山が、怯え切った様子で叫ぶ。

 自分を指し示すしわがれた指のミイラと狂気の笑みを浮かべる蒲生さんに追い詰められる彼は、まともにしゃべることすらできなくなっていた。


「あなたですよね? 加奈子を、私の娘を罠に嵌めたのは……! 自分に降りかかる火の粉はご両親の力でどうにかしてもらって、懲りずに今も次の標的を探し、加奈子にしたのと同じことをするつもりだった……そうでしょう?」


「ぅぁ、ぁ、ぁ、ぁ……っ!?」


「……沈黙は、肯定と受け取っていいんですよねぇ……!?」


「ひっ、ひぃぃいっ! あああああああっ!? たすっ、助けっ! たすけでぐれぇっ!!」


 ――僕の目の前で転がっているこの指には、二人分の憎悪が込められている。

 騙され、踏みにじられ、絶望を味わわされた娘と、娘の人生を無茶苦茶にされた父親の憎しみと怒りが、この指には込められているのだ。


 死を選ぶ寸前、加奈子さんは自らこの指を切り落としたのだろう。

 自身の無念を、絶望を、憎しみを……その元凶となった男の名を記した手紙と共に左手の人差し指を父に送り、復讐を願った。

 全てを知った父は狂気をその身に宿し、娘の指に導かれるままに仇を探し続けたのだろう。


 蒲生さんは狂気に満ちた笑みを浮かべ、娘の尊厳を踏みにじった男との対面を心の底から喜んでいる。

 これまでの一生で、この笑顔よりも恐ろしいものを見たことがなかった僕は、浅く荒い呼吸を繰り返して……気付く。理解してしまう。


 先ほど感じた蒲生さんの言葉の矛盾。助手席には何かがいるが、娘から受け取った小袋を持ち込んでからは、タクシーに乗り込むがいなくなったという話。

 よくよく考えれば、何もおかしくはないのだ。何一つとして矛盾などしていない……そのことに、僕は気付いてしまった。


 あの小袋が、悪しき霊を跳ね退けるお守りとして機能しているのではない。あれは断じて、そんな正の力を持つものなどではない。

 単純な話だ。あの袋の中にある指と一緒に、このタクシーに乗り込んだ何かがいる。それが助手席に居座り続けているからこそ……新しい客が乗り込むことができない。ただそれだけなのだ。


 その事実に気付いた瞬間、車内の温度が数段下がった。

 骨の芯まで凍り付いてしまうのではないかと思わせるほどに冷え切ったタクシーの中、寒さと重圧でまともに動かなくなった首を動かし、助手席へと目を向けた僕は、さっきまで見えなかったものを見る。


 そこには、さっきまでいなかった何者かの姿があった。血でべっとりと汚れた、所々が破けているワンピースを着た女性が、そこに座っていた。


 ゆっくりと……その女性が、体を振り向かせていく。

 体を半身にし、そこから先は首を捻ってこちらを向いていく女性と目が合った僕は、恐ろしさに息を飲むことしかできない。


 無表情。そして感情を湛えていない瞳。それはほんの少し前まで蒲生さんが見せていた表情と酷似している。

 僕と目を合わせ、数秒止まった血だらけの女性はわずかに目を細めた後、また静かに首を動かし始めた。


――ゴキゴキ、ゴキンッ……!


 もうこれ以上は回るはずのない女性の首が、限界を超えて捩じれていくと同時に骨が軋む音が響く。

 バキッ、ベキッ、と本能が警鐘を鳴らすような音を響かせながら振り向いていった女性は、怯える片山と目を合わせると……嬉しそうに笑った。


「ぁ、ぁ、ぁ……っ!?」


 口の端を吊り上げ、目を細めて、先ほどまで何の感情も宿していなかった瞳に歓喜をにじませて……その女性が、加奈子さんが笑う。

 父親と同じ狂気に満ちた笑みを浮かべながら、明らかにこの世のものとは思えない存在と化している彼女は、薄く口を開くと共に言った。


「見ぃ、つけタ……!!」


「ひぁぁっ! ひっ、ひぃいっ! あひぃいいいいいいいいいいっ!!」


 憎しみ。歓喜。そして狂気。この世の者ではない存在である加奈子さんと、今、確かに生きている人間である蒲生さんが放つ負の感情に当てられた片山が、正気でいられるわけがなかった。


 狂ったように叫びながら全力でタクシーの扉に体をぶつけ、どうにかここから逃げ出そうとする。

 ただ固まってその様子を見ることしかできないでいる僕の耳には、ぐちゃっ、ベキッという肉や骨が潰れる音が響いていた。


「あは、アハ、あは、ハ、ア、は……アハハハハハハハハハッ!!」


「うああああああああああああああああああああああああああああっ!!」


 地獄の底から聞こえてくるような高笑いに、恐怖の限界を迎えた片山が叫ぶ。

 その瞬間、彼の懸命の体当たりによってついにタクシーのドアが開き、シートベルトを外した片山は、転がるようにして車から飛び出し、泣き叫び始めた。


「助けてっ! 誰か、助けてえぇえええええっ!!」


 そう叫ぶ片山の声が、姿が、あっという間に消え去る。

 彼がどうなったのかはわからない。だが、このままこの車の中にいるよりかはマシだ。


 そう考え、飛び出そうとした僕であったが……そこで八坂さんの存在を思い出した。

 彼女は今、ぐったりとしたまま動けないでいる。多分、彼女を連れて逃げ出そうとしたら……脱出は間に合わないだろう。


 八坂さんを見捨てれば、僕は助かる。この恐ろしい車内から逃げ出し、生還できる。

 だが、まひるを喪ってから僕のことを気に掛け、気遣い続けてくれていた彼女のことを見捨てることなど、できるはずがなかった。


「………」


「キヒ、ヒ、ヒヒヒ……アハハ、ハハッ!」


 覚悟を決めた僕が意識を失っている八坂さんに手を伸ばしたのと、開いていたドアが閉まったのはほぼ同時だった。

 逃げ道を封じられたタクシーの中に、この世の者ではなくなった加奈子さんの笑い声が響く。


「……ごめん、八坂さん」


 こんなことになってしまったことを詫びながら、せめて少しでも生存確率が上がるようにと願いながら八坂さんを抱き寄せる。

 死ぬのなら、僕が先に死んだ方がいい。もしかしたら、僕を殺した時点で怨霊も満足してくれるかもしれない。


 淡い願望を抱きながら、死を覚悟して逆に落ち着いてきた心臓の鼓動を感じながら、僕は目を閉じる。

 極寒の冷気が迫る感覚に恐怖を覚えながらも、このまま死ねばまひるにまた会えるかもなと考えた僕は緩く笑みを浮かべ、そして――



―――――――――――――――



「――お客さん、お客さん」


「うっ、う、ん……?」


 ――凍えるような寒さと揺すられる体中に響く軋むような痛さを感じながら、僕は意識を覚醒させる。

 ゆっくりと目を開いた僕が見たのは、運転席から手を伸ばす蒲生さんの姿だった。


「着きましたよ。ここで合ってますよね?」


「え? あ、はい……」


 そう言われた僕が窓の外を見てみれば、もうあの何もない暗い空間は広がっていなかった。

 代わりに、見慣れた新居のマンションがそこにあって……自分が日常に戻ってきたことを理解する。


 ただ、まだ頭が上手く働いてくれない。何がどうなって、ここに戻ってきたのだろうか?

 そんなふうに僕が混乱する中、運転席の蒲生さんが心配そうな声でこう言ってきた。


「……大丈夫ですか? 随分とうなされていましたし、悪い夢を見ていたみたいだ」


「うなされていた? 僕が、ですか……?」


「ええ。お連れさんもそうですが、あなたもこの車に乗り込んできた時から顔色が良くなかったですよ?」


 そう言われて首を動かせば、僕の隣で寝息を立てている八坂さんの姿が目に映った。

 彼女も無事だったかと、安堵する僕に対して蒲生さんが言う。


「もしかしてですが、新人歓迎会で先輩からお酒を飲まされましたか? ああいう場では度数の強いお酒を無理に飲ませたり、わからないようにジュースに混ぜて飲ませる悪い先輩がいますからね……大変な目に遭った新入生の子たちを毎年のように乗せてますから、わかりますよ」


「………」


「大丈夫ですか? 具合が悪いなら、外の空気を吸ってもいいですよ?」


「……いえ、大丈夫です。料金、お支払いします」


 あれは夢だったのだろうか? 何もかもが、知らず知らずのうちに酒に酔った僕が見た悪夢だった?

 正直、とてもそうとは思えない。びっしょりと汗に濡れたシャツが、その気持ちを加速させていく。


 だが……それを今、ここで考えても仕方がないことだ。

 八坂さんのこともあるし、今は休もう。そう考えた僕はタクシー代を払い、八坂さんを抱えて車を降りた段階で……動きを止める。


「……すいません。一つ、聞かせていただいてもいいでしょうか?」


「はい、なんでしょう?」


 ゾワリと、何か嫌なものを感じた。それでも、聞かなくてはならないと思った。

 こちらを見もしない蒲生さんの横顔を見つめながら、小さく息を吸った僕は、彼に質問を投げかける。


「このタクシーに乗ったのは……僕と彼女だけだったでしょうか?」


 ……しばし、静寂が僕たちの間を流れた。

 ごくりと唾を飲み込んだ僕が蒲生さんの横顔を見つめる中……ゆっくりとこちらを向いた彼は、笑みを浮かべながら言う。


「……ええ、あなたたちだけでしたよ」


「……そうですか。変なことを聞いてすいません」


「いいえ。私の方こそすいません。もっと早くに答えればよかった。下手をしたら、かもしれませんでしたしね」


 そう、笑みを浮かべた蒲生さんを見つめながら、僕は一歩下がる。

 バタン、と音を立てて閉まった扉と走り去っていくタクシーのことを、僕はしばらくの間、見つめ続けていた。

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